「まぁ君は……勝田の機嫌でもとっててよ」
入社半年後の面談で、社長から言われて「そうか」と思った。
うちの会社はベンチャーで、従業員は35名。ほとんどが20代だ。社長が大手の広告代理店を辞めて独立したのが5年前。わたしは今年の新卒である。
うちの会社は小規模ながらも、一昨年から新卒を採用している。といっても社長と勝田さんの母校(ふたりは大学の先輩・後輩でもあった)の学生をインターンやバイトから採る形で、なんのツテもない三流大学出身者の採用はわたしが初めてだった。
社長直下の編集部に配属されたはいいが、出版物どころか自社メディアすら持たないうちの会社では、編集すべきものはほぼない。他部署の手伝いや、雑用のような仕事が続いていた。優秀な同期・先輩が昼夜なく駆けずり回っている間、わたしはパソコンでマインスイーパをやっていた。これで給料はみんなと大差ないのだから、なぜ雇われているのか不思議であったし、罪悪感さえおぼえていた。
ここで勝田さんについて説明しておこう。
勝田ヨシヒロ35歳は、社長の代理店時代の同僚だった。彼は社内でも有望なクリエイターで、その才能に惚れ込んだ社長が独立の際に引き抜いたと聞いている。実際、うちの会社の業務のすべてを把握して纏めているのは勝田さんだった。うちの会社の屋台骨はと聞かれたら、社長を含めた全員が勝田さんの名を挙げるだろう。
そんな勝田さんだけど、人格にはかなり問題があった。とにかくパワハラ体質なのだ。気に入らないことがあれば物にあたり、毎日のように誰かを怒鳴りつけていた。まともな会社なら完全にアウトだ。……多分だけど、勝田さんはその“まともな会社”で何かトラブルを起こしたのだ。社長の起業の目的は、むしろ勝田さんの救済だったのではと思う。それなら、勝田さんの社長に対する異様な忠誠心にも納得がいく。
……そんな勝田さんのご機嫌とり。それは一般的な業務より難しいのでは、と思った。けれど、その時のわたしはやっと自分に役割が与えられた気がして嬉しかったのだ。わたしは要領は悪いが真面目である。その日の帰りにコミュニケーション関連の本を山ほど買った。
……今思えば、さすがに本当に勝田さんのご機嫌とりのために採用されたとも思えない。社長の発言も、あまりに使えない新人を持て余してのものだったのだろう。けれど、わたしは真に受けてしまった。馬鹿馬鹿しい悲劇のはじまりだった。
わたしは頑張った。少しずつ勝田さんに擦り寄って、彼の機嫌をとるよう努力した。勝田さんの意識は良くも悪くもクリエイティブチームに向いており、その他の人間には意外なほどに無防備だった。
イラつきがピークに達した彼が部下たちを怒鳴り散らす前に、なだめ、励まし、誉めそやし、とことん話を聞いた。飲みに行くことも増えた。最初は社長を交えて、次第にふたりで。社長の「あいつは女の子に拒絶されるのが怖いから、無理に誘ったりはしないんじゃない」という言葉の通り(投げやりだな)、ホテルに連れ込まれたりはしなかった。遠回しな表現や、わたしからの誘いを待つような間はあった。けれど、それをかわせるくらいの緩みはあった。
そんなある日の飲み会の帰り、定期を会社に忘れたと気がついた。勝田さんは珍しく酔っ払い、タクシーで帰宅した後だった。分かりきっていたことだけど、オフィスには電気が煌々と付いていた。
クリエイティブチームの若手数名が残っていた。みんなパソコンの画面を睨んでいたが、ひとりは床に寝袋を敷いて寝ていた。こうして順番に仮眠をとるらしい。自分の席が手前だったなら、誰にも気づかれず忘れ物を取って出られたかもしれない。けれど、わたしの席は奥だった。何なら制作部の横だった。
「お疲れ様です……」
わたしを横目でちらりと見て、何人かが挨拶を返した。すぐ帰るのも憚られ、何かできることはないかと訊ねると、ふたつ年上の篠木さんが平坦な声で「ないっすねー」と応えた。別にクリエイティブの仕事を手伝えるとは思っていない。わたしは同期のユカの席に回って、「夜食でも買ってこようか?」と聞いた。ユカは無言でモニターを見つめていた。何らかのゲージが画面の中で伸びていた。
「ユカ、アイスか軽食でも……」
続く言葉を失ったのは、ユカの目から涙が落ちたからだった。わたしは混乱し、手の中のパスケースをぎゅっと握りしめた。
「いい加減にしろよ!」
立ち上がったのは篠木さんだった。いつも寡黙な篠木さんの荒っぽい声を初めて聴いた。モニターの青白い光が、クマのある顔の色をますます悪く見せていた。デスクの上にはレッドブルの缶がふたつ転がっている。
「お前、なんなんだよ。いつもヘラヘラ勝田さんに媚びて。今日も飲んできたんだろ、酒くせぇよ」
篠木さんは吐き捨てるように言った。シンとしたオフィスにパソコンのモーター音だけがかすかに聞こえた。わたしは視線を彷徨わせたが、誰とも目が合わなかった。ユカは両手で顔を覆い、小さく肩を震わせていた。
「あの人と付き合ってるんだか知らねえけど、ろくに仕事もしないで恥ずかしくないのかよ」
え、でも、と喉まで出かけた言葉を飲み込む。お酒を飲んできたのは事実だが、わたしは勝田さんと付き合ってなどいない。けれど、少なくとも篠木さんはそう思っている。
頭が真っ白になった。勝田さんのご機嫌とりは、もちろん正式な業務じゃない。けれど、好きでもない男にとことん付き合い、好きでもない酒を飲みながら時には朝まで愚痴を聞き、その対象の社員のフォローをさりげなく入れて気をなだめ、休日にもひっきりなしに来るLINEや通話に対応するのは、決して楽なことではなかった。やることはほとんどキャバクラだった。それでも、わたしの行動は無駄ではなかった。勝田さんのメンタルは安定し、周りに理不尽に当たる頻度は激減した。社長も「上手くやってる」と言っていた。だから、周りにも受け入れられていると信じていた。
だけど、そうではなかったのだ。篠木さんたちから見れば、地味で使えなかった新卒が上司に取り入り、調子に乗っているようにしか見えなかったわけだ。勝田さんに気に入られるため、メイクやファッションに気を使い出したのも色気づいたと思われたのだろう。わたしが毎朝、やりたくもないメイクに時間をかけて、勝田さんの好みの女子アナ風の、全然好みじゃない服と歩きにくい靴で通勤している意味は、誰にも伝わっていない。
……わたしには篠木さんやユカのようなスキルはない。だから別の面で、みんなが働きやすくなるよう努力してきたつもりだった。会社の生命線であるクリエイティブチームと同じくらいとは言わなくても、毎日ゴミ箱をカラにしてくれる掃除のおばさんと同程度には貢献を認められているはずと、愚かにも信じてしまっていた。
先程までいた居酒屋では、勝田さんの口から出る篠木さんへの不満や愚痴を死ぬほど聞いて、その上で篠木さんがどんなに頑張っているか、勝田さんを尊敬してついて行っているかを伝えた。他罰的で感情の起伏の激しい相手に対して、怒りに油を注がず、空気を読んでやんわりとそれを伝えることが、どんなに神経を使うことか。どんなに良い店でご馳走されても、勝田さんとのご飯は美味しくない。好きでもない男、むしろまあまあ嫌いな男に手を握られた時の、背筋がぞっとする感じ。湿った手のひら。期待と欲の混ざった眼差し。酒の匂いのする口。皮のむけた唇。それらを機嫌を損ねずかわすための労力。
すべてに我慢して頑張ってきたのは、他でもないみんなのためなのに。その“みんな”から見たわたしは、上司とイチャつき、まともに仕事せずに給料をもらい、飲んで遊んでは気まぐれに「何か手伝うことある〜?」なんて言い放つ無神経女なのだった。
「わ、わたしだって……嫌なのに……」
いつの間にかわたしも泣いていた。泣きながら、勝田さんマジで無理すぎ、プライド高いのに自信がなくて、ひと回り年下の女に全肯定を求め、休日も彼氏気取りで連絡してきて、少し返事が遅いと拗ねるなんて、マジでキャバクラの痛客じゃん。いい大人のくせに、機嫌次第でドアや机をぶん殴るのも痛すぎる。何がクリエイターだよ、クリエイティブなら何してもいいのかよ、昭和の文豪? いま令和だぞ。本当に無理。超きらい。あと香水の匂いがキツすぎて個室で飲んでると吐きそうになる、てか今日もトイレで吐いたし……というようなことを喚いていた。
みんな唖然としていた。わたしの突然の告白に驚いているのかと思ったけど、視線はもっと奥を見ていた。後ろに勝田さんが立っていた。コンビニで買ってきたらしい差し入れの袋を両手に持った勝田さんの目は今まで見たことないほど暗く、ボタボタと涙を流していた。大人3人が泣きだす異常な夜に、わたしは今すぐ地球が滅びることを願った。
おしまい
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