内田ゲンペイの趣味は、終わっていることに、道ゆく知らない女に向かって「ブス!」と叫ぶことだった。あと混み合う駅で大人しそうな女を狙ってぶつかりに行ったり、エレベーターで女とふたりきりになれば不必要に距離をつめ、怯える様を楽しんだりもした。少しでも相手が警戒する素振りを見せれば、「警戒してんじゃねぇよ! ブスが!」と罵るなどし、日頃の鬱憤を晴らしていた。嘘みたいに人間性が最悪であった。
仕事終わり、特に理由はないけどむしゃくしゃすんな〜と思った彼は、今日も適当な女に罵声を浴びせることにした。駅前のコンビニでストロングゼロを購入し、店の前で一気に飲み干す。そして自転車に乗り(※道路交通法違反)今夜のターゲットを探しに夜道に繰り出した。ぶつかり活動なら人が多い場所に限るが、声かけならば人通りのない夜道がベストだ。ひとりで歩いている女にちょっとした恐怖を与えるのは、彼にとって教育の意味合いもあった。女が偉そうに道を歩くなど生意気であり、それをわからせてやる……そんな意味不明の自論を持って、彼は自らの行為を正当化していた。
ストゼロの缶を公園の茂みに投げ捨て、彼はターゲットの物色をはじめた。大人しそうでさえあれば容姿も年齢も問わない。それなのに、今日に限って適当な女が見つからなかった。内田は意地になり、駅から少し離れた住宅街を自転車でぐるぐる回った。「これじゃ不審者みたいだな」と内田は思うが、みたいと言うか、不審者である。
その女を見かけたのは、内田の家とは反対側の住宅街だった。長い黒髪で白いマスクをつけ、薄いベージュのコートを着ている。連れがいないのを確信し(以前、ひとりと思っていた女の横に彼氏がいて面食らった経験がある。彼氏がヤンキーで怖かった)内田はノロノロと女に近づく。真横まで来たところで、顔を見ながら「ブス!」と叫んだ。蛇足だが、内田は後ろ姿でターゲットを決めた。別に相手の美醜は関係ないのだ。罵倒の言葉は「バカ!」でも「デブ!」でもなく「ブス!」に決めている。それが女の価値を全否定し、反論不可能な魔法の言葉であると、内田は信じて疑わなかった。たとえ相手がガッキーであろうと、同じ言葉を投げつける――それが内田の流儀であった。
今夜のターゲットである黒髪女は、突然の罵声に目を見開いた。大きくはないが、女に反応があったので内田は満足だった。内田はペダルを回して加速する。この言い逃げの瞬間の快感を、内田は愛していた。
「私、キレイ?」
え? と思った。その声は真横から聞こえた。暗い住宅街を自転車で駆ける内田の真横から。声の方向に目をやると女と目が合った。先程の黒髪ロングの女が自転車の横を並走している。内田の心臓は飛び跳ね、危うく電柱にぶつかるところだった。は? 内田は頭の中が真っ白になった。それでもなんとか視線を前に戻し、ペダルを漕ぎ続けた。内田がどんなにペースを上げても、女はついてきた。おかしい。男が全力で漕ぐ自転車にぴったりと並走し、息ひとつ乱さない女がいるだろうか。しかも顔は完全に横、つまり内田の方向に向いている。……その上コイツ、たしかハイヒールじゃなかったか。内田は記憶を絞り出すが、確かめる余裕はない。内田が右に回れば女も右に、左に曲がれば女も左に。奇妙なデットヒートが続いた。
女は口裂け女であった。一応説明しておくと、口裂け女は都市伝説とか妖怪の一種で、口が耳まで裂けた化け物である。その口元をマスクで隠し、「私、キレイ?」と子供に問う。子供が「キレイ」と答えれば、「これでも?」とマスクを外して裂けた口を見せ、逃げる子供を追いかけて殺す。その速度は100m6秒とも言われ、ウサインボルトよりも全然速い。スタミナも無尽蔵である。口裂け女の噂はさまざまなバリエーションがある。べっこう飴をやれば大人しく帰るとか、「ポマード」と3回唱えれば逃げていくとか。けれど口裂け女は別にべっこう飴など好きではないし、スイーツなら弁財天のフルーツ大福の方が良かった。ポマードの匂いはたしかに苦手ではあったものの、単語を聞いて逃げ出すというのはいくらなんでも大袈裟である。ていうか、ポマードってまだ売ってる?
新型コロナウイルスの流行により、街中の人がマスクをつけている。おかげで口裂け女もカジュアルに外出できるようになり、テイクアウトやひとり映画、買い物などを楽しんでいた。内田が声をかけたのは、映画プロミシング・ヤング・ウーマン鑑賞後の口裂け女であった。
一方、内田は見知らぬ女に危害を加える異常者でありながら、相手が異常者であることを全く想定していなかった。突然の罵声に驚き、場合によっては傷つくが、特に被害届も出さずに泣き寝入りする……そういう女を選んだはずだった。それなのにナニコレ? 黒髪のくせに(?)!! いつのまにか内田は泣いていた。普段は避けている警官に会いたい。交番の方へ自転車を走らせているつもりなのに、いつまでたっても見えてこない。ていうか誰もいない。なんか同じ場所をぐるぐる回っている気がする。すべて正解である。内田に声をかけられた瞬間、口裂け女は領域展開。内田にとって異世界と言える空間に引きずりこんだ。必中必殺。どこまでいってもふたりきり。
内田は死に物狂いで自転車をこぐ。一方の口裂け女は時速20キロで走りつつ、考え事をする余裕があった。
……久しぶりだな、この感じ。
口裂け女が最後に人間に「私、キレイ?」と問うたのは約2年前。コロナが流行りだし、みんながマスクを求めて右往左往している頃だった。声をかけたのは小学生の兄妹だった。兄は10歳、妹は7歳くらいだろうか。少しサイズの大きいマスクで、顔の下半分が隠れている。涼しげな目元がよく似ていた。
かつては「私、キレイ?」と声をかけようものなら、子供の顔はたちまち恐怖に引き攣ったものだ。けれど最近の子供は口裂け女の噂を知らない。幼い兄妹もきょとんとしていた。ふたりは顔を見合わせる。口を開いたのは兄だった。
「どうだろう。わかりません」
……わからないってことはないだろう。口裂け女は目元にはめちゃくちゃ自信がある。幅広の平行二重、涙袋あり、まつげのカールや眉毛の形も完璧だった。
「どんな人だって美しいって、ママが言ってた!」
妹は無邪気に胸を張る。あっそ!! 素晴らしい教育ですこと!! ルッキズムに支配された口裂け女は舌打ちをこらえた。こいつら問答無用で殺ってやろうかな……と思い始めた口裂け女はマスクに手をかけたが、「あ! マスクは外さないでください」と未知の疫病を憂う兄により制された。
「あなたが美しいかどうかは、僕たちが決めることではないです。でもそうですね、あえて言うなら……服や髪型にはこだわりが感じられますし、僕は素敵だと思いますよ」
「わたしも! キラちゃんみたいなキレイな目!」
「……キラちゃん?」
「うちの猫です。可愛いですよ」
兄がスマホで写真を見せてくれた。でっぷりと太った三毛猫だった。妹に抱かれ、警戒心なくその身をゆだねるキラちゃんの瞳は美しい金色だった。口裂け女は兄妹を殺さずに去った。
口裂け女が「あの兄妹、元気かな」などと考えてる間に、内田の体力が尽きた。自転車は転げるようにして停止した。地面に尻をつく内田の心臓ははち切れそうであったが、口裂け女は息ひとつ乱していなかった。
「私、キレイ?」
「はぁ、……っクソ、何なんだよ……」
「私、キレイ?」
「いや、その……ブスではない。うん」
「私、キレイ?」
「あ、あぁ。わかった。悪かった。キレイだよ、これでいいだろ!?」
「これでも?」
口裂け女がマスクを外すと、内田の口から悲鳴が上がった。そうそう、コレコレ! 口裂け女の本能が昂る。すぐに愛用の鎌を取り出し、内田を5秒でぶっ殺した。余談だが、口裂け女は人間を食わない。食ったとしても内田の肉はごめんであった。
久しぶりの殺しは、口裂け女に運動後のような気持ちよさと達成感を与えた。「やっぱたまには殺んなきゃだめだよね〜!」と鎌を持ったまま全身で伸びをする彼女は、さながらジムで筋トレをしたOLであった。
これまで口裂け女のターゲットは子供であったが、考えてみれば、人間離れした運動能力を誇る口裂け女が弱者を狙う理由はなかった。最近の子は忙しいし、「私キレイ?」なんて声かけの時点で不審者だ。これからの標的は、今日の男みたいな成人にしよう……口裂け女はそう思った。道ゆく女に因縁つけるような人間ならばどうせ暇だし、不審者vs不審者ならば対等だ。向こうも妖怪みたいなものなのだし。
この日から口裂け女は、標的を犯罪者・および迷惑人間に定めた。主に新宿付近でしつこいナンパ、ぶつかり、暴言、ひったくりなどの犯人を追いかけている。10人殺ったら、ご褒美にコスメを買ってもいいことにしている。コスデコの日焼け止め乳液、手軽で肌がキレイに見えておススメです。
おしまい
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