わたしの父はとにかくやべ〜人間だった。プライドが高く他責思考で、暴力的で感情的で男尊女卑なアル中である。酒を飲むと暴れるし、酒がなくても怒り狂う。
当時の父に「アル中は依存症なので病院に行きましょう」なんて言おうもんなら死ぬほど殴られただろう。父の機嫌の悪い夜、わたしと2人の姉は子供部屋にこもっていた。獣を刺激しないよう、静かに絵を描くなどして、嵐が過ぎるのを待っていた。
一方で、母は近所でも評判の美人だった。大学時代は準ミスキャンで大企業に就職した母は、結婚を機に仕事を辞めて家族と友人のいる東京を離れた。結婚前の父は、さすがに今よりはまともだったのだろうが、結果的にこの結婚は、母の生涯唯一にして最大の失敗だったのかもしれない。
そんな母には恋人がいた。彼は近所の病院の医者で、わたしはマコト先生と呼んでいた。幼い頃、わたしは母たちのデートにたびたび同行した。行き先は遊園地や動物園。いかにも子供が好きそうな場所だが、それはわたしのためではない。あくまでこれはふたりのデートで、わたしの存在はおまけなのだと、幼いながらに感じていた。でもそれで構わなかった。普段から暴力にさらされる母に優しくしてくれる人がいて、母が幸福そうなのが、わたしはすごく嬉しかった。
小学校中学年になると、さすがにデートには連れて行かれなくなった。でも母は、わたしとふたりきりになると、たまにマコト先生の話をした。それは惚気と言えるものではなく、ただの近況や昔話だった。先生のお家の薔薇が咲いたんだって。先生、昔から優しい人でね……。先生が保護した捨て猫の飼い主を探した話は20回は聞いた。でも先生について語る母の横顔は少女のようで、やはり幸福そうだったから、わたしは黙って話を聞いた。
中学に入る頃には、母はマコト先生の話はしなくなった。でも毎週、父が寝ている土曜の午前中に母はお化粧をして出かけていた。だから続いているんだとわかった。お気に入りの薄紫色のブラウスを着て、鏡の前で口紅を塗っている母の姿を見ると安心した。母には外の世界があり、そこはアルコールの匂いのしない、清潔で安全な場所なのだと。
わたしたち姉妹は、両親に離婚してほしかった。だから長いこと説得していたけれど、母が首を縦に振ったのは、末っ子のわたし・カノコの独立後だった。長女のカズハは離婚後の母との同居を決めていて、次女のヒトミは学生の頃から、父のDVの証拠を集めていた。だから母の決意さえあれば、あの男が何と言おうと離婚は速やかだった。
離婚が成立した日、姉妹と母で祝杯をあげた。場所はカズハ夫妻が建てた新築一戸建て。カズハの夫は気を利かせて外出しており、家にはわたしたち4人だけだった。お酒に弱い母は、グラス2杯でテーブルに突っ伏した。ベッドで寝ればと言ったけど、「少しだけこのまま」と幸せそうに目を閉じる母に、わたしたちはブランケットをかけて酒盛りを続けた。
「……お母さん、マコト先生にはどう話したのかな」
口を滑らせたのはヒトミだった。わたしとカズハは目を見合わせて、それから母に視線を移した。母はすぅすぅと穏やかな寝息を立てている。わたしは胸を撫で下ろした。それにしても……ヒトミからその名が出るとは思わなかった。マコト先生と母の関係は、自分しか知らないと思ってた。後でわかったことだけど、それはカズハもヒトミも同じだった。
「なんだ、知ってたの」
失言したと焦っていたヒトミがため息をつく。数秒後、わたしたちは声を出して笑った。肩の荷が降りた気分だった。みんな、今日まで自分と母だけの秘密をしっかり守ってきたんだと思うと、改めて連帯感が生まれた。わたしたちはもう一度乾杯した。
「……先生の方も、奥さんと別れてたりしないかなぁ」
深夜2時すぎだった。ワインは4本空いていた。流石に酒が回って、目がとろんとしてきたカズハが、ワイングラスを見つめてつぶやいた。わたしもそうだといいなと思った。身勝手だけど、先生と母が今から結ばれるなら、それが1番いいなって……酔った頭で、その時はそう思ったのだった。
「……先生は元から独身でしょ?」
軽く眉を寄せたヒトミの言葉に、わたしとカズハは首を傾げた。
「いやいや、先生は結婚してるでしょ。……子供はカノコと同い年じゃなかった?」
同意を求めてカズハが視線を向けてきたけど、今度はわたしが眉根を寄せた。わたしの知る限り、先生に子供はいないのだ。
それだけならまだ、細かな勘違いとして済ませられた。でも話していくうちに、わたしたちは記憶の深刻な差異に気づいた。姉ふたりは、マコト先生は医者ではないと断言した。
……発言を整理すると、マコト先生について、わたしたちはそれぞれこのように記憶してた。
カズハは「母のパート先の税理士事務所の『先生』。専業主婦の奥さんと息子が1人」。
ヒトミは「カズハの通っていた小学校の『先生』。奥さんと死別して独身」。
わたしは「ヒトミが怪我をして入院した、近所の病院の『先生』。共働きの奥さんがいて、子供はいない」。
わたしたちは混乱した。だって、そんなことってある? 3人が3人とも、別の『マコト先生』の記憶を持っている。
「先生の顔、覚えてる?」
……恐々といったカズハの言葉に、わたしは記憶を絞り出す。ちなみにわたしたちは3人とも、母と先生のデートに自分だけが連れていかれた思い出があった。でももう20年近く前の話だ。顔なんてほとんど思い出せない。
「……背が高くて痩せてて……お洒落なメガネをかけてた気がするけど」
それが強く印象に残った理由は、父と正反対だからだ。筋肉質だが背の低い父は、母がハイヒールを履くのを嫌がった。メガネをかけた知的で穏やかな雰囲気も、父とはまったく異なるものだ。
わたしが口にした外見的な特徴すべてに、カズハやヒトミも同意した。……ますます訳がわからなくなった。外見の特徴が違うなら、最悪、母の不倫相手が複数いたとも考えられる。税理士・教師・医師。3人の不倫相手を、母が「マコト先生」としてわたしたちに紹介していた、とか。けれど東京ならともかく、あの狭い街に垢抜けていて背の高い――しかも母と同年代かつ『先生』と呼ばれる職業で、子持ちの人妻と不倫をするような――男性が、3人もいるとは考えにくかった。
それに、仕事と子育てと家事で目が回るほど忙しかったはずの母が、3人の男を手玉に取る余裕があるとも思えない。母の恋人は、やはり長身メガネのマコト先生ただひとり。問題はそのプロフィールだった。
「カズハは税理士の先生って言ったけど、ママのパート先の事務所は小柄な先生がひとりで経営してたでしょ。あの人、わたしの同級生のお祖父ちゃんだよ。ママと付き合うなんて有り得ない」
「そんなわけ……。でもそれを言うなら、ヒトミの話もありえない。『マコト先生』が私の担任? マコトなんて名前の先生、私知らない」
「嘘でしょ。絶対カズハの担任か……それか部活の先生だって! あとカノコ、私が小学校の頃に入院したのは事実。でも担当医はマコト先生じゃない。カンバラって名前だったよ。年は結構若かったけど、色黒でぽっちゃりしてた」
わたしたちは黙りこんだ。カズハの家のリビングの壁掛け時計の音がする。2時半だった。母をベッドに寝かせよう、と提案したのはカズハだった。わたしたちは母を優しく揺り起こし、ベッドへ連れていった。カズハと義兄が用意した新品のベッドに、真っ白なシーツがかかっている。新築の家はどこもかしこもピカピカで、母の持ち込んだ家具だけが場違いに古びて陰気だった。
「……ねぇ、ママ。マコト先生は元気?」
カズハが毛布をかけながら言う。姉妹の中に緊張が走るが、母は特に警戒する様子もなく答えた。
「マコト先生……マコト先生は、先月亡くなったよ」
「……そうなんだ」
「ずっと入院してたからねぇ」
「そう、わかった。おやすみ」
母の部屋を出て、誰からともなく片付けを始めた。もう飲み交わす気分じゃなかった。マコト先生がこの世にいないことをまだ信じられなかったし、その素性にも疑問が残る。来客用の布団に横になっても、頭の中は悶々としていた。
翌朝、わたしとカズハは母と遅めの朝食を準備していた。昨晩のことが気になってあまり眠れなかった。カズハも同じのようで、未だに爆睡してるのはヒトミだけだった。
カズハは目玉焼きを作りながら、何でもないことのように言う。
「あのさ……今だから言うけどママって恋人いた……よね?」
直接的すぎると思ったけれど、わたしは様子を見守った。母は読んでいた雑誌から目をあげ、意外そうに聞き返した。
「恋人?」
「うん。わたしたちが小さい頃から」
カズハはフライパンから目を離さないが、神経をこちらに集中させているのがわかった。わたしもマグカップに口をつけながら、母の様子をうかがっていた。
「いるわけないでしょう。何言ってるの」
母はコーヒーにミルクを入れながら、「でも、そんな人がいてもよかったかもね」と笑った。その表情に後ろめたさは微塵もなく、何かを隠している様子もなかった。
「マ、マコト先生は……?」
わたしの声は震えていた。
「マコト先生?」
母はきょとんとした顔でわたしを見る。それから思い出したのか、「そういえば、昨日寝る前にもマコト先生のこと聞いたね。どうして?」と首を傾げた。ヒトミとよく似た仕草だった。
「そ……それは」
「……ママが寝言で……ここで突っ伏して寝てる時に言ったんだよ。『マコト先生、会いたい』って。だからわたしたち、恋人かなって……」
言葉に詰まったわたしに対し、カズハがすかさずフォローを入れる。こういうお話を作るのが、カズハは昔から上手かった。
「マコト先生が、恋人?」
母は一拍置いて笑いだした。それは控えめな母からすれば、爆笑と言っても良かった。
「マコト先生はママの恩師なの。大学時代にお世話になった教授」
マコト先生は税理士でも、教師でも医者でもなかった。わたしたちが顔を見合わせていると、母は立ち上がり、部屋から一冊の本を取ってきた。
「でもそうね、会いたいな。ママの憧れの人だった」
あなたたちが小さい頃は、たまに電話で相談にのってもらってたんだけど、ここ十数年は年賀状だけのやりとりで……母はそう言っていた。たぶん。カバーのかかった文庫本は、何度も読み返した跡がある。著者の名前は白浜マコト。わたしとカズハは、著者近影の品の良い老婦人の姿を見て、しばし言葉を失っていた。
……母が亡くなったのは、離婚からたったの4年後だった。癌だった。離婚後は旅行や趣味で楽しそうではあったけど、最後の1年は闘病生活だった。もっともっと長く人生を楽しんでほしかった。
葬儀後、わたしたちはカズハの家で母の遺品を整理した。母の多くない荷物の中から、わたしたちが子供の頃に描いた絵や手紙がたくさん出てきた。こんなもの、あの家に置いてきても良かったのに。鼻を啜りつつスケッチブックのページをめくる。イラストを仕事にしているだけあって、ヒトミは昔から絵が上手い。挟んであった紙が畳に落ちた。何の気もなく拾い上げる。それはチラシの裏に描かれた、メガネをかけた男の人の絵だった。下部に「マコトせんせい」とある。男性に向かって矢印が引かれ、「せがたかい!」「やさしい!」などと書き添えてある。ヒトミの絵だった。字はカズハ。雑ではみ出た塗りは……わたし……。
その時、わたしは過去の一部を取り戻した。
父が荒れ狂っていた夜。母はわたしたちを子供部屋に入れ、中から鍵をかけるよう言った。わたしたちは部屋の天井から下げた、おもちゃのテントの中にいた。すべて聞こえないふりをしていた。酔った父が乱暴にドアを開けようとする音。それを止める母の声。悲鳴。「お願いだから病院に行きましょう」。叫びと懇願。何か重いものが壁にぶつかる音。わたしたち姉妹は、それらを無視するのが得意だった。だってずっとずっとそうしてきたのだ。電気を消し、テントの中で毛布にくるまり、懐中電灯の灯りで絵を描いていた。理想の男性。母を救ってくれる人。父と正反対の、穏やかで優しい母の恋人。
母が電話で、時に涙ながらに助けを求める『マコト先生』を、わたしたちは男性とばかり思っていた。たぶん、その『マコト先生』の名に理想のビジュアルを当てはめて、妄想の中で肉付けし、わたしたちはそれぞれに母の恋人の記憶を捏造したのだ。他の姉妹から話を聞いた、優しそうな「先生」――わたしの場合はヒトミを丁寧に治療してくれたというお医者さん――の設定を借りて。
わたしたちは母を助けなかった。母はひとりで不幸を背負い込んでいた。だから妄想の中で母に恋人をつくり、父を裏切らせることで、母を不幸に耐えられる……逃げ場のある人にしたかっただけ、か?……そう思うと、心臓が締め付けられたみたいに痛んで苦しい。デートだと思っていた土曜の午前。あれはそう、単に税理士事務所のパートだったじゃないか。どうして勘違いしていたんだろう。土曜は受付担当だからきちんとメイクをしていた。それだけ。……それだけ? 母の唇の彩は恋人ではなく仕事のためで、あの人の居場所は本当に、職場と家庭にしかなかったのか。
母は死んでしまったから、もう真相はわからない。いや、はっきりさせるチャンスはあったのに、わたしたちは知ろうとしなかった。マコト先生なんかいなかった。母の人生は家族に縛られていた。……そう言われるのが怖かった。
「カノコ? 何を燃やしてるの?」
義兄のライターと灰皿を使い、わたしはマコト先生の絵に火をつけた。カズハの問いに応えなかった。マコト先生が守ってくれていたのは、母ではなくわたしたちだった。
約25年の時を経て、母も先生も粉になった。せめて先生の灰が風にさらわれるのを、わたしは最後まで見送った。
おしまい
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