手取りが17万円で、家賃7万、光熱費1万、食費4万、スマホ代が4000円。日用品買って保険払ったらマジでいくらも残らない。別にハイブランドのバッグとかいらないし、服はユニクロかZARAでいい。気が向いた時に好きなもの食べて、毎月美容院に行けて、お金を気にせず友達と遊びたいだけなんだけどな。てか逆に、毎月美容院! 新作コスメ! うさぎオンライン! 推しのグッズはもちろん全買い! とかやってる女、全員実家? それとも年収1000万?
息するだけで金がかかる街・東京。それでもインフルエンサーの勧めたコスメは爆売れし、トレンドが去年の服を流行遅れゾーンに押し出し、読みたい本や見たいもの、行きたい場所が増えていく。誘惑の多いこの街で、我慢をするのは困難だ。なので彼氏の財布から金を抜いてます。
誰もが名を知る大企業に勤める彼の長所はおおらかなところ。短所は大雑把なところ。「最近キャッシュレス決済ばかりだから、いざ現金払いしようとなると財布の中身が心配になる」「この前、入ったカフェが現金払いでコンビニまで金をおろしに行った」と笑うが、たぶんそれってわたしのせいです。最初は滞納した電気代のため、決死の覚悟で2000円だけ抜いてたのが、あまりにバレないので気軽に万札もいくようになった。月平均1〜2万。いただいたお金は、光熱費や友達とのお食事代として、大切に使わせていただいております。
Q.人の金で食う飯は美味いか?
A.自分の金で食うより美味い!!
彼氏は警戒心ゼロのクァッカワラビーみたいな人。眠りも深い。そっとベッドから抜け出したわたしが、彼愛用のリュックから財布を取り出すまで30秒。癖になってんだ。音殺して盗るの。最悪のキルアである。
折りたたみ式のグッチの財布の札入れを確認。数枚の紙幣……本日の手持ちは1万7000円か。2000円……いや5000円行っちゃおう! ありがとうございます。合掌。わたしは感謝を忘れぬタイプの盗人である。
5000円札を引き抜こうとしたが、引っかかるような感覚があって、すべての紙幣が一緒に出てきた。お札たちは付箋と一緒に小さなクリップで留められており、付箋には文字が書いてあった。見覚えのある彼の字だった。「泥棒」。一気に血が凍る。その時、背後で声がした。
「何してるの?」
ボールが止まって見える――……一流のアスリートは、研ぎ澄まされた集中力によって普段は認知不可能なものを感じたり、時間が止まったような感覚を得ることがあるという。わたしはアスリートではないが、まさに今この瞬間、たしかに時間が止まって思えた。頭がキンキンに冴えている。すごい勢いで思考が巡る。研ぎ澄まされた感覚が、背後の彼の気配を察する。わたしは彼の財布を手に持ち、紙幣に手をかけているところ。言い訳不能の現行犯だ。何を言う? こういう時の定番(定番とは?)は「違うの」だけど、まだ何も言われていないし、そもそも何も違わない。付箋のメッセージを見れば、彼が以前から気づいていたのは確実。無罪を争うのは無理筋だ。なら潔く認めて謝るしかない。
「すっ……みませんでした!」
わたしは振り向くと同時に土下座した。いまだゾーン。顔を見ずとも、あまりに素早い土下座に彼が動揺しているのがわかった。まともな人間はノータイムの土下座を目にすると、しばし思考が停止する。冷静さではこちらに分がある。わたしは5センチの距離でフローリングを凝視しながら、言い訳を考えていた。え? プライド……ですか? 何ですかそれ? 土下座くらいどうってことはない。ただのポーズに社会的な意味を持たせるから屈辱になるのだ。わたしはその価値観を採用していない。ヨガのポーズのひとつと思えば、心なしか腰の筋肉が伸びてる気がする。
「いや……何?」
「すみませんでした!!!!!!!!!」
「ちょっと、やめてよ」
「すみませんでした!!!!!!!!!」
謝罪のコツは、相手の期待を超えて謝ること。こちとら幼い頃から謝り慣れている謝罪のプロだ。謝罪の作法は身についていた。ちなみに言い訳は相手に訊かれてから。これも基本なので覚えておいてね。
「顔あげなよ」
顔あげなよ、と言われて顔を上げる際は、表情はもちろん速度も重要。待ってましたとばかりにスッと上げない。ひと呼吸以上は置いてゆっくりと。眉尻を下げ、唇はぎゅっと引き結ぶ。可能なら目に涙を浮かべるとベター。ようは弱者の表情を作るのだ。そうやって、相手を抵抗できない弱者を追い詰めているかのような気持ちにさせる。わたしはたっぷり10秒かけて顔を上げ、一瞬だけ彼の目を見てすぐに視線を手元に落とした。目は口ほどに物を言う。「申し訳なくて顔を見られない」をしっかりと表現しましょう。
デスクの椅子に腰掛けた彼は、感情が昂っているようには見えない。当然怒りはあるだろうが、突然の土下座で勢いを削がれた感がある。足を組む彼の正面で、わたしは正座のまま膝に拳を置いて、彼の次の言葉を待った。
「いつから?」
わたしは再び思考を巡らす。……「いつから」については、ふた通りの道がある。ひとつめは正直に盗み始めた時期を答えること。ふたつめは実際の期間より短く申告すること。素人は被害を少なく見せたいがためにふたつめを選びがちだけれど、嘘がバレた時のリスクのわりに心証は大きく変わらない。やった・やってないは天と地ほど差があるが、被害金額を多少小さく見せたところで「ならよし」となりはしない。わたしは素直に「半年前から」と答えた。彼は驚きもせずため息をひとつ。重ねて「今までいくら盗った?」と訊かれたため、それも正直に金額を答えた。
「で、なんでこんなことしたの」
……ここからである。申し訳なさそうな顔をキープして情状酌量を狙う。動機をどう料理して盛り付けるかが腕の見せ所だ。
「お……弟を大学に行かせたくて……」
ただし、ゾーンに入ったとて、わたしの頭の出来では大した言い訳は出てこなかった。体感時間が長くとも、能力以上の考えが浮かぶものではないらしい。バカの熟考、マジ意味ない。わたしに弟がいるのは事実だが、今どき水商売でも使わないような古臭い手口だ。
「両親は公務員だろう。どうして君が進学資金を?」
そうなんですよね〜。両親ともにまだ現役。別段裕福ではないが、そこそこ余裕のある家である。
「じ……実は父がが病気で……」
「お父さんが?」
「それで働けなくなってしまって、母も介護で」
「……そんなに体、悪いの?」
彼の声に同情の色が浮かぶ。ちょっとお人好しすぎないか?
「父はずっと無理してきたようで……」
彼との一問一答を繰り返すうち、父は治療法不明の難病で母は介護のために仕事を辞め、さらに叔父が借金を残して失踪した。成績優秀な弟は医者になる夢を諦めて高卒で働くと言いだした。姉である自分はどうしても進学させてやりたく、実家に少しずつ仕送りをしていたのである。……そんなストーリーが完成した。嘘みたいな話だが、嘘である。父は毎週ゴルフに行くほど健康だし、母は地元中学の校長としてバリバリ働き、弟の成績はそこそこで、夢は浜辺美波と結婚することだ。もちろん借金を押し付けるような親戚もおらず、仕送りどころか帰省のたびに小遣いをもらっている始末。よくも咄嗟に長々と嘘がつけるなと我ながら思うが、話自体は極めて陳腐。どこかで聞いた話の寄せ集めだから、わたしは絶対に作家になれない。悲しい。わたしも伊坂幸太郎になってブラピ主演でハリウッドで映画化されたかった……。
「……そうなんだ。言ってくれればよかったのに」
トーンの落ち着いた声からは、もはや怒りは感じられない。不信感は拭いきれてはいないが、「困惑している」が適当だろう。しばらくの間、沈黙があった。
「……これからは、ちゃんと相談してね」
「うん……」
この言葉が出れば勝ちである。警察に連れて行かれてもおかしくない状況で、彼は「これから」と言った。いや、ちょれ〜〜! その上、泥棒扱いしたことに、罪悪感まで覚えている様子。ちょっといい奴が過ぎないか?
「言ってくれたら俺だって協力するから」
「……うん」
「お父さん、よくなると良いね」
「うん」
わたしの目に涙が浮かぶ。妄想の中で父は死にかけ、母は生きがいだった仕事を辞め、弟は新聞配達を始めた。可哀想すぎて涙が出そう。わたしが伊坂幸太郎ならこんなことには……。
「ちなみに弟くんの志望校、W大だっけ。医学部ないけど大丈夫?」
「うん……え?」
彼がトーンを変えずに言ったので、思わず飲み込みかけて吐き出す。志望校、W大なんだ……? わたしも知らない情報だったし、もちろん彼に話してもいない。弟と彼は面識ないはずで……。
「先週、お母さんは地域新聞で教育論を語っていたし、お父さんはゴルフコンペで優勝してたね。病気になったのは今週の話?」
「……え?」
彼が差し出したスマホには、真っ黒に日焼けした父が写っていた。隣にいるのは父の弟、つまりわたしの叔父である。
「叔父さんも失踪しそうに見えないけど」
父のFacebookなんてわたしは知らない。なぜ彼が。父のフルネームを教えた覚えもない。どこからたどり着いたのだ。
「ねぇ、お父さんが病気発覚とお母さんの退職と叔父さんの失踪、全部今週の話なの? だとしたら半年前から金抜いてる理由にならないよね」
「あの……えっと」
「お父さん、警察の人でしょ。お母さんは校長先生だし。娘が犯罪者でも大丈夫なの?」
父が警官なのも事実だった。背筋に冷たい汗が伝った。いや、何これ。知ってたのかよ。母はともかく、父の仕事は聞かれてもぼかして伝えていた。わたしは混乱していた。いや、何にせよ犯罪者はまずい。わたし自身はクソ女だが、家族はびっくりするほどまともなのだ。まともな家族にまともに育てられていても、病的な嘘つきが完成してしまう。子ガチャ失敗。ほんとごめん……。
「あの……ごめんなさい! 警察だけは勘弁して!」
わたしは再び土下座をしたが、「そういうのいらない」という冷たい声が降ってきた。コ、コワ〜。サイコ野郎か?
「お金は返します。借金してでも」
こんなことなら最初からプロミス行けば良かった。楽をしたいが努力が嫌いな人間は、いつだって結局損をする。ずっと身に染みてきたことなのに、本質がまったく変わらない。
……ていうか、ずっと疑ってたってこと? ここにきて自分でもまさかだが、逆に怒りさえわいてきた。わたしは犯罪者だが、疑われるのは大嫌いなのだ。でもそんな怒りは、彼の次のひとことで霧散した。
「いいよ。今回は許してあげる」
「え、ほんと?」
あまりに寛容な発言に、わたしは思わず彼を見上げた。もうスピードとか、表情に気を遣っている場合じゃない。彼をみくびっていた。小細工の通じる相手ではなかったのである。
「うん。だから結婚して」
「うん!……え? け、結婚……?」
「あと他にも男いるでしょ、切ってね」
「え?」
「来月、実家に挨拶行こう。刑事のパパに連絡しといてね」
「え? ちょっと、どういうこと?」
「いいから結婚できるか、男を切れるかだけ答えて」
「それは……どちらもできますが……」
「そう、なら今回のことは水に流すよ」
は〜〜?? 何? 怖いんだが??
曇りのない笑顔が意味不明で怖い。
「あの……おうかがいしてもよろしいでしょうか」
「何?」
「自分で言うのも何ですが、浮気癖と盗癖のある女って、かなり地雷だと思うんだけど……どうして結婚したいのですか」
「そんなの……決まってるでしょ」
彼は笑った。寛容で優しいいつもの笑顔だった。
「顔だよ」
なぁんだ、納得♡
おしまい
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