「就職できませんでした」
リュックとキャリーバッグを抱えたタクマが、うちに転がり込んできたのは2012年の春だった。1年の留年を許した両親も、就活資金と渡した金をパチンコに使われ堪忍袋の緒が切れたらしい。卒業と同時に仕送りは終了。家賃を払えなくなって、路頭に迷ったタクマが選んだのは、自分に惚れてるセフレのところ。つまりわたしの家だった。
タクマは大学の同期だった。背が高くスタイルが良いので、どんな格好もサマになっていた。目を奪われるようなイケメンじゃないけど、笑うと見える八重歯が可愛い。バンドではベースを弾いていた。でも実は、ボーカルよりも歌が上手い。人懐っこいのにつかみどころがなく、相手をその気にさせてはヒラヒラ逃げる。わたしもタクマに心を奪われた女のひとりだ。けれどそのことを認められず、興味がないフリをしていた。……でもそんなのは当然タクマには見抜かれていて、「リナといると楽。他の女の子みたいに泣いたり怒ったりしないから」なんて予防線を張られた上で、家に呼び出されたり来られたり、結局都合よく使われた。
わたしの卒業は震災の年で、卒業式は中止になった。引越しの日、トラックに荷物を乗せ終えたタイミングで、自転車に乗ったタクマが現れた。「卒業おめでとう」と言って、近くの花屋で600円で売ってる花束をくれた。
「次の家にも遊びに行くね」
タクマはそう言ったけど、連絡がないまま花は枯れ、季節がひと回りした。翌年の春に現れた彼は、晴れて無職となっていた。
「仕事が決まるまで!」という話だったのに、彼はうちの近くでバイトを始めて居座り続けた。駅から徒歩15分で築30年。家賃のわりに広い1LDKは、タクマのモノであふれている。
……10年。
わたしが2度転職した間、タクマは8回バイトを辞めた。半分払うと言った家賃も、約束を守ったのは初めの数回だけだった。けれどタクマはいつでも機嫌良く、意外と家事をし、雨の日は駅まで迎えに来てくれた。ふたり暮らしは悪くなかった。
一方で、女の気配がしたことは一度や二度じゃない。でもそれを咎められる関係じゃなかったし、責める女になりたくなかった。わたしも何度か彼氏を作った。タクマも気づいていたと思うが、態度はいっさい変わらなかった。馬鹿らしくなって彼氏とは別れた。
「ただいま」
金曜の23時に帰宅すると、タクマは無防備にソファで寝ていた。テレビを見ながらうたた寝してしまったらしい。シーツが部屋干しされており、朝干した洗濯物は畳んであった。
「……あぁ、おかえり」
気配に目を覚ましたタクマは大きく伸びをし、「お茶飲む?」と聞いてきた。「お願いします」と答えると、彼は台所に立った。電気ケトルでお湯を沸かし、茶葉を贅沢に使い、香りの良い紅茶をマグカップに入れて持ってきた。すべてわたしが買ったものだった。
「同窓会、楽しかった?」
湯気の上がるカップを前にタクマが尋ねる。同窓会と言っても、ちょっと人数の多い飲み会だ。誘いはタクマにも届いたはずだが、彼は返事をしなかった。居酒屋で撮った写真を見せると、タクマは「みんな老けたな」と苦笑した。
「これ西本? すげぇ太ったね」
タクマが指差した西本くんは、かつてタクマのバンドでボーカルを担当していた。当時は小柄で顔立ちも可愛く、女の子たちから人気があった。今は体重が倍になったらしい。不動産系の営業マンで、2歳になる娘を溺愛する良きパパだ。
わたしは紅茶の香りを吸い込みながら口を開いた。
「……タクマは変わらないね」
「そんなことないでしょ」
タクマはそう言うが、口元の笑みを隠しきれていない。バイト先で年下の同僚に囲まれる彼は、言葉遣いも格好も若い。伸びてきた髪の右側だけが肩のあたりで跳ねていた。
「変わらないよ」
本当に、タクマは変わらない。あらゆる責任から逃げて、将来から目を逸らし、若い子とキャッキャとはしゃいでは、ちょっと面倒なことがあると人間関係をリセットする。10年間、仕事や子育てに打ち込んできたみんなとは、もう同じステージに立っていない。わたしは目の前の彼をじっと見つめた。
太ってはいない。けれど偏食で、スキンケアも運動も面倒くさがるタクマが、努力もなしに若さを保てるはずはなかった。あの頃「どんな食べても太らない」が自慢だったタクマの胴回りには、確実に肉がついている。輪郭のラインがぼやけ、ピカピカだった肌には毛穴が目立ち、うっすらシミができている。少しずつ白いものが混じり、それを隠そうと風呂場で染めた髪は傷んでいた。バイト仲間からは「とても30代には見えない」と言われるそうだが、流石にちょっと無理がある。タクマと話していると、たまに「昨日まで大学生だったのかな」と思う。中身は23歳のまま、悪い魔法にかけられて、見た目だけ歳を取らされたような。重さもストーリーもない老いが、彼の体に張り付いている。
「来月末に引っ越しなんだ」
突然の知らせに、タクマは「え?」と首を傾げた。タクマが何かを問う前に、わたしは続けた。
「明日ダンボールが届く。だからしばらく部屋が狭くなるかも。家具や家電はギリギリまで使えるようにしとく。わたしは明日からウィークリーマンションで寝るよ。テレビと冷蔵庫は使うならあげる。タクマはこのままこの部屋に住む?」
「え、何?」
混乱したと言うよりは、ドン引きするような声色だった。タクマの強張った顔を見ていると、なぜか心が安らいだ。
「引っ越すって……何、どこに?」
「さぁ」
「急すぎる」
「急じゃない。ずっと考えてたことだし、次のマンションも契約してある」
「……俺は?」
「好きにして。ここに住むなら大家さんと話つけてあげる」
「そうじゃなくて」
「次の家には連れて行かない」
タクマの顔から笑みが消え、部屋は重たい沈黙で満ちた。秒針の音。住み始めた頃に買った壁掛け時計は、今日まで健気に使命をまっとうしている。
「……おれ、ひとりじゃ家賃払えないよ」
今まで折半していたような言い草だった。この期に及んで笑えるが、なんともタクマらしくもある。タクマの左手はカップを離れ、テーブルの上で固く握られている。
何かしたなら謝るとか、今度からちゃんと家賃を払うとか。タクマの並べた沢山の言葉は、わたしの鼓膜を素通りした。引越しはもはや決定事項で、何ひとつ覆りはしない。最初こそ愛想笑いを浮かべ、機嫌をとるように下手に出ていたタクマの顔が、じわじわ焦燥と苛立ちに染められてゆく。あぁきっと、わたしはこの光景を見たかったんだ。自分の性根の悪さに呆れる。
「わかったよ」
「そう、じゃあ」
明日からタクマも新しい家を探してね……と言おうとした時、彼が言葉を被せてきた。
「結婚しよう」
「え?」
唐突すぎて言葉も出ない。タクマはこれで満足だろうとばかりに腕を組み、わたしの様子をうかがっている。わたしは唖然とした。いや、嘘でしょ。この男、ずっと愛されている気でいたのか。……本当に、この人は昨日まで大学生だったのでは? わたしは少し怖くなった。
自分はちょっと就活に躓いた若者で、地頭が良く、周囲ほど努力しなくても大学に受かった。だから普通に就職してたらそれなりに稼げたはずだけど、あえて『しなかった』。そのためセコセコ働くストレスや、日々増していく責任によって老けた同世代とは話が合わない。女はみんな自分が好きで、自分が離れることはあっても、相手が離れていくことはない。いつまでも軽やかな自分はその魅力により、女の金で生活できている。女が金を払い続けたのは、決して惰性などではない。大学の頃から一途にずっと、自分を愛しているからだ。……タクマはそう信じてるってこと? だとしたら、この人はある意味だれより一途だ。切り札の『結婚』のカードを出せば、どんな決意も更地にできると思っている。わかっていたことではあるが、わたしは死ぬほどナメられていた。
「無理でしょ」
同居したての頃は、たしかに少ない給料の中から、無理してタクマの小遣いを捻出していた。機嫌を損ねたくなくて、自分の昼食代を削ってタクマの飲み代にあてていた。けれどキャリアを積んだ今のわたし(しかも住まいは新卒時に借りた家賃7万2000円)にとって、タクマに毎月わたす小遣いは大した負担ではなかった。不思議なことに、金銭的に苦しい時の方がタクマに対して愛情……いや、執着かな……とにかくそういう感情があったように思う。狂おしい恋の季節が過ぎ、収入に余裕ができ始めると、タクマは何となく継続しているサブスクみたいな存在になった。海外ドラマ見たさに契約し、今はほとんど見てないNetflix。友達の勧めで登録したままのAWA。かつて大好きだったから家に住ませて、それなりに家事もしてくれるから、追い出すきっかけもなかったタクマ。
「なんでだよ……」
タクマは困惑し、少し涙目になっていた。まるで裏切られたかのよう。完全に被害者の顔をしている。でもわたしたちは、今も昔も相手を裏切れるような関係ではない。セックスフレンドからセックスを抜いてもフレンドにはなれないのは、世界三大不思議のひとつ。最後に彼とセックスしたのがいつか思い出せないし、もちろん今更したくもなかった。
「俺、別れないから」
別れるも何も付き合ってない。タクマも同じ認識だろう。苦し紛れの自覚はあるはずだ。生活のために好きでもない女に縋るタクマは哀れであり、初めて見せた必死さに胸を打たれたような気もした。けれどわたしは、哀れな男も必死な男も好みじゃない。
最後にセックスした日は覚えてないけど、最後にタクマを思って泣いた夜はよく覚えている。同居4年目。一緒に餃子を作ると約束していた日だった。当時タクマはバイト先の女子大生と深い仲で、深夜1時の「ごめん、帰れなくなった」との連絡ひとつで翌日の昼まで帰ってこなかった。冷蔵庫の大量のひき肉や餃子の皮を、どう処理したのか思い出せない。……あの時、餃子を作れていたら、もしかしたら友達になれていたかもしれない。
「別れないから……」
タクマの声は震えていた。10年前、彼からの連絡を寝ずに待っていた女はたくさんいるのに、その女たちのうち誰一人、今はタクマを思い出しはしないだろう。タクマを甘やかし、時間を盗んだのはわたしかもしれない。
紅茶は冷めきっていた。タクマを直視できないわたしは、窓の方向に目を逸らす。気づいたら雨が降っていた。明日まで止まないかな……などと考えていると、窓際に置いた一輪挿しにひまわりが飾られているのに気がついた。それを見て、急に大学時代の記憶が蘇る。家に来たタクマが花瓶を指差し、「花が好きなの?」と聞いてきた。好きだと答えた。タクマはふーんとだけ言った。たしか。
……そういえば、彼と暮らした10年間、この家に花が絶えたことはなかった。それに気づくと泣きたくなったが、もうタクマの前で泣く体力も、プロポーズを受け入れる気力も、わたしには残っていなかった。ねぇタクマ、10年も一緒に過ごしたのに、わたしたち家族にも恋人にも、友達にもなれなかったね。
おしまい
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