「葬式なんて残された人たちのためのお祭りじゃん、っていつも白けた気持ちでいたけど、あんなの可愛いもんだったよね」
清潔な病室でニナはため息をついた。どんなに医療が発展しても、人間は死ぬ時は死ぬ。若くても、才能があっても、どんなに愛されていようとも。
あと数ヶ月でニナの人生が終わる。けど人格はデータに残る。生前の脳の情報をコンピューターに転送するマインド・アップロードは、今や一般的な技術となっていた。
電子端末からコールすれば、生きている人はいつでもニナと会話ができる。体感的にはテレビ電話と変わらない。愛媛のニナの母親と東京に住む夫のマサノリさん、各々と同時に話すことさえ可能になるから、むしろ今より繋がりやすくなるとも言える。
あくまで死者との対話はシュミレーションで、機械が死者の人格を再現しているにすぎない。けれど、大切な人の容姿や記憶を引き継いで、泣いたり笑ったりする彼らをただのデータと割り切ることは、わたしたちにはまだ難しかった。一部の人は頑なに『死』という言葉を避けて『引越し』と呼んだ。壊れやすい肉体を捨て、データの世界への引越すだけ、というのが彼らの主張だ。
身近で初めて『引越し』たのは、高校時代の恩師だった。
最後にお見舞いに行った時、髪は抜け落ち、頬はこけ、たくさんの管に繋がれながら、うつろに天井を見つめていた先生。その先生が元気な姿で画面に現れた瞬間、不覚にも涙が出そうになった。真っ白な髪を自然にセットし、お洒落なシャツと時計を身につけ、細いフレームの丸いメガネをかけた先生。それはわたしたちが記憶に残したい先生の姿そのものだったし、本人にとってもそうだろう。考え方、言葉の選び方、間の取り方。本人もたぶん自覚していない、メガネのツルを触る癖。噂には聞いていたけれど、恐ろしい再現度だった。
「いやぁ、すごい! また君たちと会えるなんて!」
初めてコールした先生は、すごく興奮してはしゃいでいた。
……けれど、2回目のコールの際、先生はすっかり落ち着いていて、回を重ねるたびに元気がなくなっていった。わたしやニナが大学卒業後の進路について報告すると「君たちは変わっていくんだね。僕だけが、」と言いかけて、はっとしたように口をつぐんだ。あの日から、何度コールしても繋がらない。それは先生の家族や同僚も同じらしかった。死者は自分からコールできない代わりに、生者からのコールを拒否する権利がある。10年対話実績のない死者のデータは削除される決まりだから、これはゆるやかな自殺と言える。かなり珍しいケースらしいけど、自ら死を選ぶ自我を持つ先生を……先生のデータを、恐ろしいと思った。
ニナは窓の外を睨みながら言う。
「わたしは死んで、わたしのコピーがネットに残って、絵も描けず、仕事もせず、誰かに求められた時だけ『会話』して、あとはずっと夢さえ見ずに眠ってるって何? アホらし。ペットより都合よく使われるんだね」
死者はコールを受けて初めて“目覚める”。『死者のデータ』は人間ではないので人権はない。ペットどころか、社会的な分類で言えばツールである。必要な時だけ電源を入れるテレビや掃除機と変わりはない。
ニナの白い頬が夕日を受けて、ちょっとだけ健康そうに見えた。最近、彼女は急激にやつれた。美しく咲いていた花が萎れていく様を見ているようでやるせないけど、わたしにできることはない。
「コピーのわたしが泣いても怒っても、そんなの作り物じゃん。馬鹿みたい」
ニナは苦々しげに吐き捨てる。生身の脳が作り出す感情と、データの返すリアクション……何が違うのか、わたしにはあまりピンとこない。でもニナを刺激したくないので、わたしは反論せずに話題を逸らした。
「けどさ、散々言われたでしょ。死者を蘇らせるのが目的じゃなくて、生きている人の心を慰めるためのサービスだって」
ニナだって理解しているはずだった。だからこそ、彼女はアップロードに同意した。ニナの最愛の夫は、妻の余命を知ったとき「ニナを失うなんて耐えられない」とニナより先に号泣した。
「絵も描けないわたしはわたしじゃないよ」
ニナは窓の外に目を向けて言った。東京都内とは思えない広い空。沈む太陽に向かってカラスが飛び去る。この光景を死後の世界に持っていくため、まばたきでシャッターを切っているように見えた。
――数年前、ある漫画家が連載作品の人気絶頂でこの世を去った。死んでデータとなった彼は、その後に予定していた展開をアシスタントに話してしまった。漫画家の死によって連載は打ち切りとなっていたが、アシスタントの彼は作品の結末を描き、SNSで発表した。当然大論争になり、その結果、死者は生者の社会に干渉すべきではない、という結論に至った。過度に創造的、発展的な発言は制御され、生者側には伝わらないようになった。死者は何も生み出してはならない。天才的な科学者も、賞を総なめにしたミステリ作家も、新進気鋭の新人画家のタケムラニナも。死者の役割は、他愛なく、生産性のない会話で生きている人を癒すことだけだ。
「わたしはニナの両手が腐り落ちて、絵が描けなくなってもニナだと思うけど」
「……リリってたまに怖いこと言うよね」
ニナは拗ねたみたいにわたしを睨んだ。ニナの個室の病室には、マサノリさんが持ち込んだ彼女の作品が多く飾られていた。ベッドの脇にはスケッチブックと色鉛筆がある。最後の最後まで彼女は描き続けるだろう。
「でも、わたしは手がないなら足で描く。足もダメなら口で描く」
口に筆をくわえてキャンバスに向かう彼女の姿を思い描くのは簡単だった。ニナなら本当にそうするだろう。そして新しい表現を見つける。もっともっとニナの作品が見たい。彼女の人生が、こんなにも早く終わりを迎えるなんて、そんなこと誰も望んでいなかったのに。
「……わたしが言いたいのは、絵を描かないニナがニナじゃないって思ってるのはニナだけってこと」
「わたしがわたしかを決めるのは、わたしじゃないってこと?」
「少なくとも、引越し後はそうみたいね」
わざと突き放すように言うと、ニナも視線を逸らして「こわ」とつぶやいた。感情のこもらない、乾いた「こわ」だった。
「限りなくわたしに近い何かが残って、みんながそれをわたしの名で呼ぶ。タケムラニナは、わたしの名前は、コピーに奪われる。そんなのをありがたがるなんてどうかしてるよ。意味がある?」
「残された人にとっては、たぶん」
「わたし、マサノリに忘れてほしいんだよ」
不意にニナの声が涙に滲む。うつむき、ぎゅっとつむった両目を囲むまつげが長かった。
「まだ28歳じゃん。新しい恋人を作って幸せになってほしい。あの人、子供も好きだしさ。偽物のわたしがいるせいで、吹っ切れなかったらどうしよう。……そう思うのに、アップロードを承諾しちゃった。忘れてほしいけど、本当は忘れてほしくないんだもん。でも、」
ニナが唇を噛む。数秒間の沈黙があった。
「わたしは永遠にマサノリが好きなまま、心変わりもできないのに、マサノリの幸せをちゃんと祈れるのかな。自信がない。マサノリは他に好きな人ができたら、律儀にわたしにコールして、それを伝えると思うんだよ。そしたらわたしはみっともなくすがって、泣いて、罵倒する。ありがとうなんて絶対言えない」
ニナは立てた膝に顔を埋めるようにして嗚咽した。髪がタオルケットにかかって広がる。自慢だった長い髪はツヤを失っているけれど、『引越し』後の彼女はツヤツヤの髪とふっくらした頬を取り戻し、永久に保ち続けるのだ。
「アップしたデータを改竄して、ちょっとだけ性格を良くしてくれないかな? マサノリに『幸せになって』って笑って言ってあげれるような。それができないなら、もういっそ……」
か細い声が病室のシンとした空気に溶けていく。わたしは「大丈夫だよ」と口にしかけて思いとどまった。ニナが今ほしいのはこんな言葉ではない。
……でも、実際ほんとうに「大丈夫」なのだ。
ニナを失ったマサノリさんは悲しむだろう。何度もニナにコールして、その度にまた泣くかもしれない。けれど、ニナの残したデータと同じく、時間も彼を癒やすのだ。マサノリさんはこれからも沢山の人と出会い、関係を築き上げていく。「リリ以外の友達はいらない、つくらない」と宣言していたニナも、2年も経てばたくさんの仲間に囲まれていたように。
マサノリさんはニナを愛しているし、一生忘れはしないはず。だけど、生きている人は、過去を忘れずに思い出にできる。老いないが成長もしない死者のデータを、人生のパートナーとして扱い続けるのは、思う以上に難しいのだ。
心変わりをした彼が、わざわざニナに「律儀にコール」をするかといえば、多分しない。再現されたニナの悲しむ顔を見るだけの、誰も幸せにしない行為だからだ。彼が誠実に向き合ってきたのは、あくまでも今生きている生身のニナだ。
「死者は残された人が新しい人生を走りだすまでの補助輪であるべき」と言っていたのは、3年前、わたしにアップロードの説明をしてくれた医師だったか。
「リリにも、今度こそ会えなくなる……」
ニナは涙に濡れた目でわたしを見た。正確には端末の中のわたしの像を見た。
コールは生者からしかできない。死者はコールを受けて初めて起動するので、死者どうしの会話は不可能だ。ニナがわたしと同じ立場になれば、ふたりの対話は永久に失われる。
けれど、わたしたちはコールがあるまで眠っているのだ。体感的には誰かと会っていない時間がないわけだから、寂しさを感じる暇がない。今わたしがひたっている感傷も、ニナとのコールが終わればリセットされて、10秒後に他の人からコールがあれば、「えー元気!? お子さん大きくなったねぇ!」なんて笑顔で手を振れるわけだ。自分の感情に振り回されるのは、生きている人の特権らしい。
……だから、ニナだって絶対「大丈夫」だ。
半年後のニナは、わたしが恋しくて泣いたりしない。わたしもニナと向き合う時間を失う。お互いすごく「大丈夫」で、でも今度こそ永遠のお別れだった。
「ねぇ、こっちもそんなに悪いもんじゃないよ」
それは慰めではなく本心だった。弟の結婚式を見られて良かったと思う。ニナが画家として成功する過程を見守れたのも、闘病中の彼女の心に、少しでも寄り添えたことも。仕事もなく、食事も睡眠も取らないわたしは、近ごろニナが起きている時間は常時接続状態にあった。わたしが生きていたら、ここまで長い時間そばにいるのは難しかっただろう。この寂しさと満足感、たくさんの色が混ざった気持ちが作り物だなんて信じたくないけど、わたしは証明する術を持ってはいない。
それでも、ニナの命が燃え尽きるまで、少しでも精神的な苦痛を和らげるのが死者の使命だし、親友としての本望だ。もしも今の自分に肉体があれば、ニナの涙を拭ってあげられたのになと、体温を持たないわたしは思った。というかたぶん、思った、と感じるように作られている。そうだとしても、作り物だって偽物じゃない。と、わたしは信じることにした。
おしまい
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