妹は、わたしの夫が好きらしい。
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30歳の誕生日に大失恋して、その足で結婚相談所に駆け込んだ。年収・身長・年齢などのあらゆる数値のお見合いをして夫と出会った。入籍は31歳になる2ヶ月前だった。
お互いのゴールは結婚であり、それを達成してしまったら、生活は急速に彩度を失った。趣味も考え方もまるで違うし、違いを面白いとも思えなかった。気の合わない2人が暮らす家は、歩くたび空気がきしむ感じがした。
妹のシオリは関西の大学に進学し、そのまま大阪で就職した。仕事が忙しいのもあって、わたしの夫と顔を合わせる機会はこれまでそう多くはなかった。けれど、両家の顔合わせや結婚式、引っ越し祝い……わたしが夫と家族になろうと努力し、こんなに頑張ってるんだから愛しているに違いないと信じていられた時代のイベントには、必ず参加してくれた。
そんなシオリが春から東京に戻ってきた。こちらには気軽に誘える友達がいないと言うので、姉妹で出かける機会が増えた。観劇、ランチ、ショッピング。気を使わなくていい妹と会うのは、わたしにとっても良い息抜きになっていた。
5月、新しいオーブンレンジを手に入れたので、シオリを夕食に招いた。食後に彼女が買ってきてくれた宝石みたいなケーキを食べていた時、出張のはずの夫が帰宅した。仕事が早く片付いたため、ホテルをキャンセルしてきたらしい。
シオリは人なつっこい義妹らしくケーキを勧め、外面の良い夫はそれに応え、わたしは妹と夫の交流を見守る妻として紅茶を淹れた。
シオリを駅まで送った後、夫は「家に他人を入れるなら事前に伝えろって言ったよね?」とため息をついた。わたしは「他人? お前のことか?」と思ったが、乾いた食器を片付けながら「自分の使ったカップくらい下げてくれない?」と言うに留めた。
その日以降、シオリはやたらと家に来たがるようになった。しかも「お義兄さんのいる時に」。「だってこの前、ちょっとしか話せなかったんだもん」と言われれば、断る理由も思いつかない。
3人で食卓を囲む時、夫はやけに饒舌で、妹はテンションが高かった。楽しげなふたりを眺めていると、何を食べても虚無の味がした。
「明日お兄さんと飲みに行くんだけど、お姉ちゃんもどう?」
いつの間にか、妹と夫はわたしを飛び越え、ふたりで約束するまでになっていた。シオリは毎回律儀に声をかけてくれたけど、外でまで夫と会いたくないので断っていた。
梅雨からの一時期、夫はスマホを手放さなかった。けれど、最近はむしろ出来るだけスマホを見ないようにしているみたいだ。今もソファでスマホをいじっているが、その表情は苦々しい。舌打ちをして、ため息をつき、テーブルの上にスマホを伏せて風呂場に向かった。
シャワーの音が聞こえた時、ふと夫のスマホを見てみようと思った。パスコードは0923、実家の犬の誕生日。LINEのトーク履歴の1番上はシオリだった。新しいメッセージに既読をつけてしまわないよう、機内モードに設定してからトークを開く。最近のやりとりは、シオリからのメッセージばかりで夫はほとんど返信していない。会いたい。悩みがあるんです。いつ空いてるの。明日お仕事何時に終わりますか。会社の前まで行きますよ。返事ください。電話できますか?
あぁ、と思った。
6月に始まったらしい関係は、8月のある日を境に一方的なものに変わっていた。何があったのかまではわからない。けれど、シオリが不安定になっていく様ははっきり見て取れた。「お姉ちゃんに言いますよ」と脅したり、「実はお姉ちゃんには、子供の頃からいじめられていて……」なんて同情を引く嘘をついたりなどもしていた。夫のSNSのキャプチャを送って強引に話題を作り、彼の同僚のインスタの監視を仄かしているのにはゾッとした。
そんな不穏なやりとりを自分のスマホで撮影して、わたしはソファに身を沈めた。行儀悪く立てた膝に夫のスマホをはさみ、両手で自分のスマホを操作する。
「明日、夜ご飯を食べに来ない? 夫もいるけど」
LINEの宛先はシオリ。何も知らない女を演じるのは、そう難しいことではない。返事はすぐに来た。「行く行く! 楽しみ。デパ地下でカヌレ買ってくね」。
夫のスマホに持ち変える。トークを閉じて、機内モードを解除した夫のスマホに、一気に通知が流れ込む。「泣いてる」「しにたい」「じゃあなんで好きって言ったんですか」……シオリは今、本当に泣いているんだろうか。わたしのスマホに表示される可愛いキャラのスタンプとのギャップが、血の繋がった妹の像をぼかした。
翌日の19時ちょうどにやってきたシオリの顔は、会社帰りのはずなのに完璧な化粧が施されていた。その日の夫は飲み会で、日付が変わるまで帰らない。夫の不在を伝えると、彼女は案の定ガッカリしていた。それを隠さない自然さに、今まですっかり騙されていた。
「ねぇシオリ、どうしてあの人なの?」
いただきますの直後、湯気を立てる唐揚げに彼女の箸が到達する前に問う。シオリは「え?」と首を傾げてみせたけど、わたしが何も言わないのを見て、真顔になって箸を置いた。
「彼が話したの?」
「そうじゃないけど」
「あーじゃあ携帯見たんだ。勝手に! 夫婦だからって最低だよ!?」
鬼の首を取ったように大声を出すので驚いた。一拍置いて、そうか、シオリは人の夫を“彼”と呼ぶ女だったのか……そんなどうでもいいことが頭によぎった。
「お姉ちゃんが盗み見してるのわかったから、返信くれなくなったんだね。なんだ、そういうこと。そういうことかぁ」
シオリは笑う。笑うために開けた大きな口に、わたしの料理を放り込んでゆく。食べると言うより平らげる、目の前の食べ物を無に返したいとでも言うような、雑で乱暴な所作だった。唐揚げの油がブラウスを汚し、口紅のピンクが消え去っても、シオリはガツガツと食事を続けた。
「スマホを見たのは昨日だよ。だから返事がないのは関係ない」
シオリはピタリと動きを止めて、わたしを睨みつけてきた。肉食獣みたいだと思った。シオリはわたしを食べたいんだろうか。……そうかもしれない。料理とわたしを食べ尽くしたら、きっとこの家で『彼の奥さん』をやるのだ。
「どうして別れないの」
箸をテーブルに転がして、椅子の背にもたれ、両手をぶらんと投げ出したシオリは、口の中の鶏肉をくちゃくちゃ噛みながらわたしに尋ねた。
「彼言ってたよ。もう夫婦関係は終わってるって。どうせ結婚したかっただけなんでしょ。じゃあ一回しました、それで良くない? バツイチなんて珍しくないって」
シオリの言うことはもっともだ。子供もいないのに、相性の悪い他人と夫婦でいるのは、嫌いな上司と一緒に住むくらい不自然だ。夫も同じで、妻の妹には――関係の良かった時だろうけど――そんな気持ちを吐露できていたのだ。
離婚の2文字は常に頭にあって、日に日に重みを増していた。昨日までは。
夫と妹の不倫を知って……というより妹の必死さを見て、わたしは久々に興奮した。賢くて、誰からも愛されていたシオリが、嘘や工作、ネットストーカーまがいの行為までして逃げる男を追いかけている。しかも相手はわたしの夫。こんな面白いドラマの結末が、離婚なんてつまらないものであっていいはずがない。非のないわたしは、夫から離婚を切り出されても拒む権利を持っている。「まだ夫を愛している」と涙をこぼす資格も失っていない。悲劇のヒロインの役を得た今、絶対にこのステージから降りたくなかった。だって……わたしはとても退屈なのだ。
「別れないよ」
ごめんね? と言いながら、わたしはやや冷めた料理に箸を伸ばした。濃い味付けの固い肉は、噛むとキュッと音を立てる。表面の乾いた米が舌の上でパサパサと粒を主張する。それでも、食べ物をこれほど美味しく感じたのは久しぶりだった。わたしは料理の天才か? ううん、これは幸せの味。噛み締めているのは唐揚げではなく幸福だった。
「シオリも早く良い人を見つけてね。あの人よりずっと良い人を」
意識したわけでもないのに、わたしの口から流れる言葉には穏やかで優しい響きがあった。歌うみたいな気持ちよさ。飲んでないのに酔ったみたい。
「東京に来て寂しかったんだよね? 大丈夫。わたし、忘れるから」
わたしはシオリの手を取った。涙を溜めた大きな目はわたしを睨みつけていた。瞳は怒りと憎しみでぐらぐら煮えたぎっている。彼女が一番許せないのは、勝手に許しを与えられること。たったふたりの姉妹だから、わたしはシオリをよく知っている。
「上からものを言うんじゃねぇよ」
低い声だった。一番やんちゃな小学生の頃だって、こんな言葉遣いはしなかったのに。手は乱暴に振り払われた。
「何が『寂しかったんだよね?』だよ。お前の感覚押し付けてんじゃねぇぞ。バカならバカらしく見て見ぬふりしろよ」
それからしばらく罵倒は続いた。シオリはわたしの知らない間に、世界の汚い言葉を摘み取って食べて、自分の体に取り込んでいた。たったふたりの姉妹なのに、遠い世界の人みたい。
「同情するなら彼をくれ!」
シオリが投げつけたコップが割れて、中のウーロン茶が飛び散った。爆発するような笑い声が自分のものだったのに、気づくまで少し時間がかかった。
おしまい
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寝取った妹側の話
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