ゆらゆらタユタ

わたしのブログ

母を養わない罪滅ぼしに、グッチの財布を買いました

4月の初旬、わたしは帝国ホテルのレストランにいた。ひとり約2万円のランチコース。相手は田舎から出てきた母親だった。今日のために美容院に行ったらしい母の髪は不自然なくらいに真っ黒だ。濃紺のワンピース、パールのイヤリング、小ぶりなベージュのバッグ。母を飾る物のほとんどは、ここ数年でわたしが贈ったものだった。このランチの代金も、払うのは当然わたしである。

料理をペロリと完食した母が、食後のコーヒーを飲みながら満足そうに店内を見渡す。


「こんな良いものが食べられるようになるなんて、やっぱり大学に行って良かったよね」

母はうっとりと目を細める。わたしからは「そうだね」としか返せないし、言ってしまえば「お母さんのおかげだよ」と続けるはめになる。だから曖昧な笑みで誤魔化した。コーヒーと一緒に出されたデザートは、美しいけれど食べる気にならない。ちらりと時計を見る。まだ14時前だった。これで解散、とはならないだろうな。デパートで買い物をして、お茶をして……。これからの数時間の労力と出費を考えると頭が痛かった。


—-


わたしの産まれた家には、祖父を頂点としてはっきりとした序列があった。

祖父は「女が学をつけるとロクなことにならない」を微塵の疑いなく信じていた。その思想を受け継いだ父の娘であるわたしが、どんな扱いを受けたかは想像に難くないだろう。

4つ年上の兄とはあらゆる面で差をつけられた。食事も風呂も兄優先。勉強嫌いで怠惰な兄は塾や習い事をサボっていたが、わたしは高校受験の前でも塾に通わせてもらえなかった。それでも、家から通える範囲で1番の進学校(もちろん公立)に合格したのは意地と努力の賜物だった。


高校の入学式には母が出席してくれた。朝から無言だった母が、校門の手前で立ち止まる。袖を引かれて振り返ると、母はわたしの目を見ずに「お兄ちゃんより偏差値が高いからって調子に乗らないでね」と言った。新しい制服を着て、期待に膨らんでいた胸がしぼんでいく感じがした。母に期待するのをやめた日の思い出である。

高校生活は楽しかった。でも受験に関して学力以外の悩みを持たず、屈託なく家族の話題を口にする同級生たちを妬ましく思う気持ちが、いつも胸の奥底に沈んでいた。

勇気を振り絞って、父に進学がしたいと伝えたのは高2の夏。クラスメイトが見ていたら、「どうしてわざわざそんなことを?」と首を傾げたかもしれない。でも我が家では、わたしの……娘の進学は決して当たり前ではなかった。受験準備が本格化する前に、進学の許可をとっておく必要があったのだ。

兄が帰省していたので、時期はお盆の頃だったと思う。比較的父の機嫌が良い日の夕食の席のことだった。父はわたしの嘆願を鼻で笑って箸を置いた。我が家ではこれはある種の合図で、父が箸を置けば他の家族もそれをならう。母はうつむき、兄はまた始まったと迷惑顔で、祖母は父の横顔をじっと見つめていた。祖父だけが我関せずの顔で小鉢をつついていた。

大きなため息をつく父の目には楽しげな光が宿っていた。虫や動物を弄ぶ子供ような顔。父はたまにこの顔をする。たいていは、母やわたしの希望を打ち砕く時に。


父は大学になんか行く必要はない、どうしてもと言うなら地元の短大か、看護学校なら許してやると言った。わたしは懸命に説得を試みたが無駄に終わった。誰も味方してくれず、その場でボロボロ泣いてしまった。

食事を残したまま席を立ち、わたしは自分の部屋に閉じこもった。けれど部屋に鍵などあるはずもない。翌日、わたしをベッドから引き剥がして平手打ちをする父を、母が泣きながら止めていた。すべてがどうでもよかった。進学できないなら、高校にも行く意味がないと思った。何も食べず、ただ壁や天井を見つめるだけの3日が過ぎた。


4日目の朝、母がひとりで部屋に来た。カーテンの隙間から光が差し、鳥の鳴き声が聞こえる穏やかな朝だった。香ばしく焼けたトーストとバターの香り。ローテーブルに朝食の乗ったトレーを置いて、母は毛布の上からわたしの肩に触れた。


「大学、行ってもいいって」
思わず半身を起こして母を見る。母は少し気まずそうに微笑んでいた。同じ家に住んでいるのに、母と久しぶりに向き合った。ひとつに束ねた髪は白髪混じりで、ベッドに置いた手はささくれだらけで乾燥していた。目元には深い皺。母は当時まだ45歳だったはずだが、10歳は老けて見えていた。


父の出した条件は、国立大学に現役で合格すること、仕送りは家賃のみで生活費は自分で稼ぐこと、夏と冬の長期休みには必ず帰省する、どんな理由でも留年はNG……と細かく多岐にわたった。けれど、数日前の態度を思えば驚くほどの譲歩だった。


「卒業後は帰って公務員になるって言っておいた。話を合わせておいて」
その言葉で、この一件が単なる父の心変わりではなく、母の説得の成果だと知った。驚いた。母がわたしのために父に進言してくれるとも、交渉のできる人だとも思っていなかった。


「……だから、安心してがんばって」
母が部屋から出て行った後、わたしは声を上げてわんわん泣いた。

 


予備校代までは出してもらえなかったので、自宅で猛勉強した。その甲斐あって関東の国立大学に合格した。高校の卒業式を終え実家を出る日、母に地元の駅まで送ってもらった。

駅までのドライブは無言だった。母にお礼を言いたかったけど、きっかけがつかめないまま時間は過ぎて、目的地についてしまった。ガラガラの駐車場。灰色の空。わたしたちの乗ったやたら鮮やかなブルーの軽自動車だけが、世界から取り残されたみたいだった。


「……あのね、お母さん」
「お父さんの言う通り、夏には必ず帰ってきなさい」
わたしの言葉を遮るように、母はハンドルを握ったまま言った。


「年末も……。それから連絡は、いつでもつくようにしておいて」
母の目はまっすぐフロントガラスを見つめている。わたしを見ない横顔は、紙みたいに白くて触れれば切れそうだ。


「そうやって、4年間はお父さんの機嫌をとりなさい。その後は……あなたの好きにすればいいから」
「お母さん」
「こっちに帰ってこなくていい。好きに……楽しく生きていって」
「お母さ……」
「今までごめんね」
母はうつむき、ハンドルに額をつけ、絞り出すようにそう言った。消え入りそうな声だった。わたしは堪えきれなくて、母の背中をさすりながら泣いてしまった。毛玉だらけのグレーのセーター。そのセーターの上からでも、背中が骨張っているのがわかった。「ありがとう」を言いたかったのに、口から出るのは「ごめん」ばかり。何に対して謝っているのか、自分でもよくわからなかった。でも大人になった今ならわかる。罪悪感の正体は、あの家に母を残していく後ろめたさだった。別れ際、母から渡された封筒には、くたびれたお札が入っていた。あらゆるものを奪われた母が、必死で作った10万円だった。

 

チャンスを無駄にしたくなかったら、大学では真面目に勉強に励んだ。毎年きちんと帰省して父の機嫌をとるのも忘れなかった。そうして学費を吸い上げて、当然東京で就職を決めた。父は怒り狂ったが、人は目の前にいなければ存在しないのと同じだ。卒業と同時に引っ越して携帯も変えた。


……こうして実家とは縁を切ったわけだが、母にだけは、家族のいない時間を見計らってたまに電話をかけていた。自分で稼いだお金を使って親孝行がしたい相手は、わたしにはひとりしかいない。東京で母と会えたのは就職2年目の春だった。東京駅のホームで不安げにたたずむ母を見た時、また泣きそうになってしまった。東京までたったの2時間半。母がこの約100キロを移動するのにどれだけ勇気が必要だったか、わたしはよくわかっていた。

母と銀座を歩くのは不思議な感じで、同時に誇らしくもあった。イタリアンの3,000円のランチを食べ、三越に行った。母の誕生日が近かったので、何か買ってあげたかったのだ。色々試してみたけれど、母は結局5,000円くらいのスカーフを選んだ。母が何度も「いいの?」「大丈夫?」と聞くので、「いい会社に入ったから、これくらい平気だよ」と胸を張った。食事代、プレゼント、母の往復の交通費。当時のわたしはまだ給料も安く、奨学金の返済もあったので、あまり生活に余裕はなかった。それでも母を喜ばせたかった。


それから毎年、1年に一度か二度の頻度で母が遊びに来てくれた。わたしは自分にできる精一杯のもてなしをした。もっといい物を食べさせたい。もっと素敵なものを贈りたい。あの家では決して見せない、母の明るい顔が嬉しかった。


……風向きが変わったのは、両親と兄夫婦が同居を始めてからだった。立て続けに祖父母が亡くなったのがきっかけだったらしい。15年ぶりに実家に戻った兄は、母に言うには「すごく優しくなった」そうだ。昔は父と祖父以外には横柄な態度で接していたのに、今は母に何かと気を遣ってくれると。信じられないことに、母を甘やかすなと言った父に、兄は毅然と反論までして見せたという。かつてのパワーバランスは崩れ、兄が頂点に立ったのだ。兄の下に両親――おそらく父より母が上――、そして1番下に兄の奥さん。


……今回、東京に遊びにきた母の指には、大きなダイヤの指輪があった。兄が還暦祝いにと贈ったそうだ。その大げさな輝きに、わたしは兄の対抗心を見た。母とわたしが会っていることは、かつては絶対の秘密だった。母は1日の自由のために必死で口実をつくり、わたしからのプレゼントは箪笥の奥に隠していたと言う。けれど今、母が年に何度も東京に行く理由を兄たちも知っているんだろう。母の日も誕生日もずっと無視してきた兄が、一発逆転で買ったダイヤはいくらするんだろうか。


「……本当に、あの子はお父さんにそっくり」
ダイヤを光にかざしつつ、母の表情は白けていた。兄の中で、母に冷たくあたった過去はなかったことになっている。あるいはすべて父のせいになっているのか。父の母への態度を非難しながら、自分も妻に対しては同じ振る舞いをしているのだから滑稽だ。

帝国ホテルでのランチの後、わたしは母を連れて三越に入った。靴やバッグ売り場を見てまわる。母が気に入ったのは7万円のグッチの財布だった。鮮やかなグリーンにゴールドのロゴでわかりやすい。目を輝かせる母の横顔を見れば、娘に選択肢はない。ちなみにわたしの財布はずっと前に買ったコーチだで、角の皮が黒ずんでいる。

 

昔はどんなことでも「お母さんが悪いの」「お父さんは、お兄ちゃんは悪くないの」と言っていた母は、不思議なことに、兄が優しくなり父の立場が弱まってから、ふたりの悪口を言うようになった。かつての自分と同じ境遇である兄の奥さんを特に気にかけている様子はない。部活で理不尽なルールに苦しめられた中学生が、後輩にも同じルールを課すのに似ている。

「お兄ちゃんがね、老後は安心してねって言うの。ちゃんと介護もするから任せてって。……どうせ自分じゃ何もしないくせにね」

買い物を終えた母が、一杯1200円の紅茶を飲みながら鼻で笑う。母のこんな表情を、わたしは大人になって初めて見た。ほんの数年前、小さな伊勢丹の包みをいつまでも膝に乗せていた母は、グッチの紙袋をソファに無造作に放り出している。鮮やかな口紅を引いた母は、昔よりずっと若く見えた。


「でも実際、いつまで元気でいられるかわからないから……悔いのないように生きなきゃね」
母の上目遣い。……あぁ、来る。覚悟していたはずなのに、胃がキュッとして胸が詰まる。


「こんな素敵なところで暮らせたら、どんなにいいだろうな……」
夢見るみたいな母の言葉は、願望であり要望だった。母はわたしの「一緒に暮らそう」を期待して、そう言われてもおかしくないだけの恩義が自分にあると知っている。進学に関しては心の底から感謝している。今の仕事に就けたのも、そのつながりで今のパートナーと出会えたのも、大学に行けたからとも言える。


……でも、それってそんなに特別なこと? わたしより『偏差値の低い』兄は予備校に通い、奨学金も受けずに私立大学を留年までして卒業したのに? 周りの同級生は未だに実家で暮らしていたり、両親に物を買ってもらっていたりする。それなのに、予備校にさえ行かせてもらえず、自分で奨学金を借りて返したわたしだけ、永遠に母に感謝して何でもしてあげなくちゃならないのか。入学前も入ってからも、努力したのは他ならぬわたしなんだけど?


大学を出てから、わたしは母を安心させたくて、けっこう見栄を張ってしまった。だから実際より裕福に見えているんだろう。けれど、母を養えるかと言われると……いや、養えはするか……するんだろうし、わたしより少ない収入で、母親どころか両親・子供を養ってる人は大勢いる。それはわかっているけれど、なんだかすごく重たく感じる。老いた母の願いを叶えてやりたいと思うのが人情だとしたら、わたしには人の心がない。結局わたしも兄と同じで、手軽な親孝行で自己満足に浸りたいだけだったのだ。


……こんな時に頭をよぎる、『お兄ちゃんより偏差値が高いからって調子に乗らないで』。『お父さんがそう言ってるから仕方ないでしょ』。冷めたご飯。ぬるい風呂。兄にいじめられたと泣いて縋った時のため息。『お母さんに言わないでよ』。

美しい朝や旅立ちの日の思い出で封じたはずの記憶が、今になって頭の中で蠢く。お母さん、わたしたちの関係が良くなったのは、大人になってからだよね。それまでのあなたは……いや……今はそんなことどうでも良くて……でもどうでも良くない気もしていて……。

 

「……東京、遊ぶのはいいけど住むとこじゃないよ。またいつでも遊びに来てよ」

わたしは鈍感なフリして逃げた。母と目が合った。その目には嘘を見抜いた上で、わたしを責める色が滲んでいる気がする。被害妄想かもしれないが。


母を駅まで送ったあと、どっと疲れてその場にしゃがみ込みたくなった。どうにか体を引きずってドトールに入る。440円のアイスコーヒーが染みる。今日の出費はかるく10万を超えているが、何か飲まずにはいられない。ため息をつくと、母の願いを無視する自分が極悪人みたいで涙が出た。結局わたしは、母のために自由が制限されるのが我慢ならないのだ。そういう器の小さくて心の冷たい人間なのに、一丁前に親孝行なんてしたがるから、こんな気持ちを味わうはめになる。帰路の新幹線の中で、母は何を思っているんだろう。

母のことを大好きか、いっそ嫌いになりたかった。中途半端に家族を諦められないわたしは、これからもきっと苦しみ続ける。

母が「こんな素敵なところ」と言った東京。中野駅から徒歩10分のわたしの部屋は、家賃13万でもびっくりするくらい狭い。それでもわたしは、母の暮らすスペースのない1LDKを愛していた。学生時代から家具を一新し、ナチュラルモダンに統一したインテリア。その洒落たデスクの引き出しの奥に、茶色の封筒に入ったくしゃくしゃの10万円が残っている。


おしまい

 

お母さん側の話↓

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↓別の方向でお母さんに気に入られようとして頑張っちゃう話

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