「結婚する」と言ったとたん、目の前のナオミが小さく息を呑むのがわかった。頭に浮かんだであろう「なんで」を飲み込み、彼女はサラリと笑顔をつくる。「おめでとう!」
ナオミとわたしの出会いは中学校だから、付き合いはもう20年になる。当時は特別親しいわけではなかった。けれど卒業してから、ひょんなことをきっかけに急速に距離が近づいた。わたしたちは感覚がとても似ていた。何が許せて、何が許せないか。どんなことに怒りを覚え、どんなことで喜ぶか。ナオミと話していると、自分の輪郭がくっきりする感じがした。モヤモヤしたものが削ぎ落とされ、強くて迷いのない自分自身を感じ取れるというような。ナオミも同じだったと思うのは、わたしの自惚れではないはずだ。
何度かの結婚ラッシュを通り過ぎ、30歳を超えてもわたしは独身だった。だけどまったく寂しくなかった。独身だけどひとりじゃない。いつでもナオミがそばにいた。旅行や買い物は彼氏に付き合わせるよりも、趣味の合うナオミと行く方がずっと楽しかったし、「40歳になったら同居して、70で同じホームに入ろう」なんて言いながら飲むワインは美味しかった。ナオミと中古のマンションを買い、好きにリノベーションして暮らす生活は、その空気や匂いまで、はっきり思い浮かべることができた。
ナオミは結婚はしない主義だが、彼氏は常にいた。大学院生、編集者、銀行員、介護士、大学教授に作家。下はハタチから上は還暦手前まで、たくさんの男がナオミを愛し、そして彼女の元から去っていった。ナオミにとって恋愛は趣味だ。「私、棺桶に入る直前まで恋愛してると思う」なんて真顔で言う彼女は、ひとりの男を永遠に愛せる性質ではない。「でもマナのことは一生好き」と屈託なく笑う顔を見ると、男たちが彼女を放っておかない理由がわかった。時間が奪えない種類の魅力。50になっても60になっても、ナオミはモテ続けるだろう。
一方、わたしは子供の頃から異性が苦手だった。小学校から大学まで女子校で育ったことも少しは関係していると思う。画面の中のアイドルの笑顔には惹かれても、実際に男を目の前にすると、まっすぐに目を見られない。合コン、職場、友人の紹介。目の前の男性に異性としてジャッジされている・あるいはそのように感じる時、わたしの胃は引き攣った。愛想笑いを浮かべるたび、自分の輪郭がぼやけて名前を失い、「その辺の女A」になっていく気がした。けれど、そういう女が好きな男もいる。何人かとは交際した。アップダウンの激しいナオミの恋愛とは逆に、どれも淡々とした付き合いだった。淡々と付き合い、お互い段々と飽き、へいへいと別れた。
……そんなわたしが結婚相談所に行ったのは半年前。ナオミとの温泉旅行から帰った足だった。すぐに今の彼氏と結婚前提の交際が始まり、とんとん拍子にことは進んだ。先日両親との顔合わせを済ませ、今は家族だけの式の計画中だ。
「急だからびっくりしたよ」
涼しい風がわたしの頬を撫で、ナオミの短い髪をゆらした。金木犀の香りに、あぁ、本当にもう夏は終わったのだと思った。二度と来ない夏。ナオミは微笑んだまま、辛抱強くわたしの言葉を待ってくれた。その顔には怒りも悲しみもなくて、そのことがわたしの胸を締め付けた。
限界だったのだ。ここ数年、ナオミとの時間が楽しければ楽しいほど、わたしは不安になっていった。ナオミは結婚に興味はないと言う。ナオミの過去の恋人の中には彼女との結婚を強く望んだ男もいた。その度にナオミはヒラヒラとかわし、最終的には自由を選んだ。けれど、いつかナオミの決意を揺らがす男が現れないとも限らない。「押し切られちゃった」と照れ笑いするナオミの姿を想像すると、腹の底から冷たいものがじわじわ湧いて、体が冷えていく感じがした。口先だけで祝福をする自分を思うと死にたくなった。
いくら将来像を語ったところで、わたしたちは家族にはなれない。ナオミを縛るすべはない。おいていかれるなんて耐えられないから、おいていくことにした。ナオミにおいていかれるなんて、わたしならきっと耐えられない。でもナオミは違う。おいてかれたとすら思わないはずだ。彼女の周りにはたくさんの人がいて、わたしはその中の、ちょっと気の合う友人に過ぎない。人垣の中からひとりが退場するだけだ。
この場でナオミが取り乱して、「一緒に住むって言ったじゃん!」「約束したのに!」となじってくれれば、わたしは喜んで婚約を解消するだろう。でもそうしないのがナオミで、そんな彼女が好きだった。
「どうして結婚する人が泣きそうな顔してるの」
ナオミは笑って、私の背中を軽く叩いた。
「本当におめでとう。今度旦那さん紹介してね」
「……うん」
夫になる人を思い浮かべるけれど、その顔は霞みがかったみたいにぼんやりとしていた。出会った初日に「共働きで」「子育てや家事はきちんとシェアしましょう」「両親は兄夫婦と住んでいるのでご心配なく」と伝えてきた彼は、結婚相手としては申し分ない。彼と最初に目が合った時、「この人と結婚するかもしれない」と思った。それは運命なんてロマンチックなものではなくて、未来が想像の範囲に収束していくような退屈さ。でもこの退屈さが、わたしにはきっとお似合いなのだ。
「いつ籍入れるの?」「式はやる?」
この短い時間で、ナオミは完全に「なんで?」を消化したらしい。笑顔で質問に答えながら、わたしは一生、ナオミを泣かせることはできないんだなと思った。ダイヤモンドは傷つかない。その輝きで多くの人を魅了して、その強さゆえに少しだけ周りを傷つける。ひとかけらの悪意もなく。
ナオミは真新しいFENDIのバッグを振り回しながら言った。
「ついに奪われちゃったか。同性婚の制度ができたら、あんたと結婚してもよかったのに」
時間が止まれば良いと思った。曇り空の吉祥寺、ナオミのシャツの鮮やかなブルー。この瞬間を、わたしは生涯にわたって思い返すだろう。
「……嘘ばっか」
「本当だよ。もちろん婚外恋愛込みの約束で」
「勝手にしてよ」
ナオミは笑った。
どうしてこのタイミングで、家族になる話をするんだろう。ナオミと歩む想像上の未来が、歩き始めた彼との将来を霞ませるくらいに眩しくてつらい。
ナオミはきっと、自分勝手に素敵に楽しく生きていくんだ。ナオミ自身がダイヤだから、彼女にダイヤの指輪は必要ない。凡庸なわたしには、ダイヤの指輪をくれる人が必要だった。もしもナオミがダイヤをくれたら、なんて考えてひとりで苦笑した。そうじゃなくて、彼女に指輪を渡す勇気がわたしにあれば、わたしたちはずっと変わらずにいられたのだ。傲慢かもしれない。でもきっと、ナオミはどの男よりも、わたしを選んでくれる自信があった。
ねぇナオミ、わたしナオミと家族になって、あんたのはちゃめちゃな恋バナをいつまでも聞いていたかったよ。
おしまい
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