夕日の差し込む教室で、整列した机を眺めていた。何十年もこの学校に閉じ込められて、教科書やお弁当、女子高生の尻を乗せ続けてきたわりに、上品な面構えだと思った。
廊下から足音がした。足音だけでアオイだとわかった。お父さんの影響で、あらゆる武道や格闘技をかじっている彼女の体の運びは特徴的だ。後ろの引き戸が開く音。わたしを見た彼女の動揺は、振り向かなくても伝わった。アオイは無言で自分のロッカーから何かを取り出し、黒い合皮の鞄に入れた。そのまま立ち去ろうとして、ドアの手前で立ち止まる。すべてが静止した数秒があって、観念したようにアオイは教室の中央まで引き返してきた。わたしの斜め前の机に、わざと音を立てて鞄を置く。持ち手についたミニーのマスコットの、能天気な笑顔と目が合い不愉快だった。少しの間があって、アオイは普通のクラスメイトみたいに声をかけてきた。「元気?」。
「元気だよ」の答えを期待してるのがわかったから、何も言わずに視線を外した。肉体的には健康だった。けれど、精神的には決して余裕はなかったし、そんな自分に落胆してもいた。
世界のあらゆる場所と同じく、この狭い教室にもはっきりとした階層がある。クラスの女王・深川ミナミを頂点として、その他大勢の立ち位置は彼女の気分次第だった。底辺に落ちればクラス中の輪から外されて、一挙一動を陰で笑われる。不名誉な噂を流される。……でも、言ってみればそれだけだった。賢いミナミは引き際を心得ていて、暴力や金銭の要求や、証拠の残る動画やSNSを使った加害はしなかった。
少し前にミナミの機嫌を損ねてから、わたしは教室の底を這っていた。休み時間も放課後も話しかけてくる子はいない。それは小学校からの幼馴染・高橋アオイも例外ではなかった。わたしが近寄れば曖昧に苦笑し、散っていくクラスメイトのひとり。
それでも今、アオイが声をかけてきたのは理由がある。
気まぐれなミナミはひとりに固執せず、その時うざいと感じた相手を気軽にターゲットに定め、同じくらい気軽に解除した。昨日まで仲良くお菓子をシェアしていた相手を「キモくて食欲が失せる」と切り捨て、「臭くて近寄れない」と避けてた相手と今日は肩を組む。ミナミに底辺に落とされた子は、ミナミによって救われた気になる。うまいシステムだった。
盛り上げ上手で華やかなミナミはクラスを明るくするけれど、その足元には濃い影が差す。ただし、ミナミの「うざい」がひと月続いたことはないから、いわばターゲットは交代制。わたしとアオイは『当番』と呼んでいた。
そんなわたしが当番となり2週間。そろそろ交代の時期だった。……つまり、わたしがお役を終えた時に気まずくないように、あるいは『恨んでないよね?』の確認のために、アオイは声をかけてくださったのだ。
「……うざ」
自分の口から出た言葉は、思った以上に低い響きとざらついた質感を持っていた。アオイははっと息を飲み、唇を固く引き結んだ。困惑している。けれど心当たりはある。そんな顔。
「今さら友達ヅラする気?」
わたしはアオイを見ずに続けた。古い机の天板に爪を立てる。透明なマニキュアは2週間前に塗ったままで、すでに爪先は剥がれているし根本も伸びてしまっていた。弱い爪を保護する膜は、わたし以外の誰にも気付かれることなくボロボロになっていた。
「友達だと……ずっと思ってたよ……」
その言葉が本心なのはわかっていた。アオイはわたしを無視したかったわけではないし、むしろ胸を痛めていただろう。でも、助けてもくれなかった。そのことが無性に悔しかった。
命令を下した……ううん、ミナミは「あいつを無視しよう」なんて言わないから、『みんなが勝手にミナミの意向を汲み取った』に近いけど……とにかく空気を作ったミナミが1番悪くて、アオイを含めたみんなは限りなく傍観者に近い。わたしだって、当番が回ってくる前は、ターゲットの子をふんわり避けていた。それが自分に返ってきただけ。アオイもそれを続けただけ。
先に当番になったのがアオイだったら、わたしもきっと同じことをしている。それが分かっていても、自分の卑怯な性質を棚に上げても、今はアオイを許せなかった。明日ミナミに肩を叩かれ、「おはよう!」のひと言で当番が終わったとしたら、わたしはきっとホッする。ちょっと申し訳なさそうに、でも精一杯普通に話しかけてくるミヤちゃんやサツキのことも許すだろう。だけどアオイだけは別。『傍観者もいじめの加害者です』なんて、自分が傍観者のうちは全然ピンとこなかったけれど、きっとこういうことなんだろう。
自分でも理不尽だと思う。だけど、わたしはアオイにはたぶん、変に期待をしていたんだ。もしかしたら、ミナミに逆らってでもそばにいてくれるんじゃないかとか、こっそり手を差し伸べてくれるんじゃないか、とか。でもこの2週間、アオイから連絡は一切なく、彼女の世界からわたしは消えていた。もしも「無視してごめんね、友達だと思ってるよ」なんてLINEが送られてきたら、それはそれでムカついたかもしれない。けれど、とにかく『わたしが当番になった』と『アオイが傍観者に徹した』。このふたつの事実だけで、わたしはアオイを責める権利がある。……あるよね?
「……次の当番、誰だろうね」
我ながら意地の悪い物言いだった。もう隠すつもりもない。次はアオイであってほしい。そこから始まる短いようで長い日々を、ミナミではなくわたしに心で詫びながら過ごしてほしい。その間わたしは傍観者を徹底する。それでイーブンなはず。……だけど、そしたらわたしとアオイは、前の関係に戻れるだろうか。ううん、今はそんなこと重要じゃない。……あれ? それじゃあ何が重要なの? わからないけど、もう考えたくもなかった。
アオイは目に涙を溜めて、唇を噛みしめていた。以前は慰めてあげたい、元気づけたいと感じたそんな表情すらも腹立だしい。アオイに傷ついた顔する権利はない。
ミナミのいじめは、もしかしたらいじめとも言えないのかもしれない。クラスで「ただ嫌われている」だけ。それも期間はごくわずか。大したことじゃないと思ってた。でもいざ当事者になってみると、想像以上にきつかった。友達みんなが手のひらを返す。返した手のひらから香る罪悪感が、わたしをますますみじめにさせた。……一番罪悪感臭かったのがアオイ、あんただ。
わたしより気の弱いアオイが『当番』になったら、どんなに苦しむか想像に容易い。でもそれを経験せずに卒業するなんて我慢ならない。
アオイと仲良くなるんじゃなかった。仲良くなかったら期待しなくて、期待しなかったら恨まなかった。アオイはいい子だ。わかってる。わかってるから期待して、裏切られたから勝手に失望してる。
「許さないから」
声が震えて情けなかった。鞄を掴んで教室を出た。アオイがわたしの名前を呼んだけど無視した。ミナミではなくアオイを許さないのはお門違いで、敵わないミナミを恨むより楽だからだと、自分でもよくわかっていた。それでも誰かを恨まなければ、わたしは立っていられない。早く帰りたい。そして、自分の部屋の机にある、能天気な笑顔のミッキーのマスコットを、今日こそゴミ箱にぶちこんでしまいたかった。
おしまい
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「深川ミナミが女王の教室」シリーズ↓
女友達に過度に期待する話↓
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