深夜の浦和の住宅街を、行くあてもなくさまよっている。わたしは首元がダルダルになった無地のTシャツとユニクロのリラコという出で立ちで、足元はサンダル履きだった。引っ掛けてきたジェラピケのパーカーは、数十回の洗濯を経て滑らかな肌触りを失っている。
褪せてくすんだ色合いの中で、肩からかけた鞄の鮮やかなグリーンが浮いていた。先ほど彼から投げるように渡されたこのバッグは、去年の誕生日に彼から贈られたフルラ。財布に社員証にメイクポーチ、パソコンまで入っていて重い。妙に生臭い風が横顔を撫でる。乾ききってない髪が頬に貼り付いて不快だった。
彼氏のシンちゃんは高校教師だ。元は大学の同期で、卒業後の同窓会をきっかけに付き合いはじめた。交際期間は丸4年になる。約半年前から同棲開始し、約15分前に追い出された。理由はわたしの浮気だ。先週一緒に旅行に行った(という設定にしていた)女友達が、コロナで入院中だったのがバレてしまった。はじめは努めて冷静に話し合おうとしていた彼は、浮気相手がリョウスケと知ると顔色を変えた。わたしの目を見ず「出ていけ」と言い、「一緒にいたら殴ってしまいそうだ」と吐き捨てた。うつむく彼の両手は震えていて、いっそ殴ってくれたら良いのにと思った。
浮気相手のリョウスケも、大学時代の友人だった。彼をひとことで表すなら『美男』だ。イケメンとかハンサムとかより、もっとシンプルで直接的な、その言葉がよく似合う。切長の目は瞳が淡い色をしており、スッと通った鼻筋のラインが美しい。肌は羨ましいほどきめが細かく、顔が小さく背が高い。完璧な美貌。笑うと右の口角だけがキュッと持ち上がるクセがあり、その左右非対称さがかえって魅力的だった。そんなリョウスケは、相手の欲しい言葉を読みとる天才でもあった。当然、恐ろしいほどモテた。彼自身は『努力のピークは大学入試』なタイプで単位は毎年ギリギリだったが、周りの女子(と、一部の教授)の手を借りて、なんとか4年で大学を卒業した。
リョウスケとわたしが関係を持ったのは、ほんの3ヶ月前からだ。ある劇団の公演を見にいったら、受付にリョウスケがいた。舞台にも端役で出演していた。後で聞いたところによれば、役者のひとりが急病で、急遽リョウスケに声がかかったらしい。「棒読みだったでしょ」と彼は笑ったが、わたしに演技の良し悪しはわからない。けれど、舞台の上で最も美しく、存在感があったのがリョウスケだったのは間違いない。
公演後、リョウスケと軽く飲むことになった。リョウスケは今も定職に就かず、バーテンのバイトで生計を立てているらしい。たまに知り合いに呼ばれてモデルのまねごとをしたり、ホストのバイトもしているのだとか。
リョウスケはとにかく会話が上手い。話題が豊富なのに聞き上手で、基本的には相手を褒めつつ、イジられても構わない部分だけを軽くイジって、あっという間に距離を縮める。ホストは天職だと思うけど、「男社会の人間関係が無理」だから本腰を入れる気はないそうだ。酒は進み、ふたりともほろ酔いで2軒目に向かった。
連れていかれたのは大衆居酒屋。手書きのメニューが壁いっぱいに貼ってある、色気のない店だった。およそデート向きではないが、その気安さが心地よかった。リョウスケはよく食べ、飲んだ。もつ焼き、枝豆、卵焼き。
「メグちゃん、昔は俺のこと嫌いだったでしょ」
メガジョッキのハイボールを手に、リョウスケは悪戯っぽく笑う。
「……そんなことないよ」
嘘だった。入学当初の数ヶ月を除き、わたしは意図的に彼を避けていた。
「まぁ俺みたいな劣等生は、メグちゃんに嫌われてもしょうがないんだけど」
たしかにリョウスケは決して真面目な学生じゃなかった。でも、わたしが彼を避けていた理由はそこではない。
田舎育ちのわたしにとって、リョウスケは眩しいくらいに『東京の男の子』だった。だから近づき難かったが、グループワークで一緒になった彼は驚くほど気さくで好感が持てた。自然に連絡先を交換し、休みの日に会うようになった。それはわたしにとってはデートだったが、彼にとってはそうではなかった。リョウスケは他の女の子とも出かけていたし、当時遠距離恋愛中の彼女もいた。それを知った時、わたしは裏切られた気持ちになった。チャラい、ムカつく、彼女が可哀想。そうやって彼を軽蔑することで、自分のプライドを守ったのだ。……今思えば単なる失恋なのだけど。
それから彼の巻き起こす大小さまざまなトラブルのために、無償で奔走する女の子たちもまた、わたしの……そしてシンちゃんの軽蔑の対象になった。シンちゃんの内心はともかく、わたしの軽蔑の本質は嫉妬でしかなかった。
「もうこんな時間。あっという間だったね」
終電間際に店を出た。夏の訪れを予感させる、なんだか生ぬるい夜だった。友達の距離で歩きだす。リョウスケの香水の香が鼻に届いた。なんだか足元がふわふわした。
「俺、大学生の時メグちゃんのこと好きだったんだよ」
ふいの言葉に足が止まった。振り返るリョウスケの顔は、下品なネオンに照らされてなお美しい。駅までほんの数十メートル。カラオケ屋の入ったビルの角を曲がればすぐだった。
「今日は会えて嬉しかった」
リョウスケの手が腰に触れ、そのまま彼に引き寄せられる。たぶん振りほどくのは簡単だった。だけどわたしはそうしなかった。
「今日、帰らないとまずい?」
本当にまずいことに、その日シンちゃんは出張中だった。わたしは「でも」と口にしたけど、続く言葉を持っていなかった。迷うふりを続けるわたしの目は、どれだけ浅ましい色をしていただろう。もうひと押しが欲しい。戸惑うわたしの退路を塞ぎ、抵抗を奪うひとことが。
「俺、まだメグちゃんと離れたくない」
簡単な言葉でじゅうぶんだった。細く長い指に心まで絡め取られる。わたしたちはタクシーに乗りこんだ。
リョウスケはわたしの欲しい言葉を惜しみなくくれた。大好き。可愛い。こんなに好きになったのは初めて。頑張ってるね。よくやってるよ。そのままでいいよ。甘えていいよ。だけどシンちゃんからは奪えないな。……こんな現状に甘んじる言い訳までも。
リョウスケは優しい。でもたまに、相手の欲しがる言葉を読み取り出力するだけの機械にも見えた。彼の口から出る言葉は、あくまで相手が求めたもので、彼の本心とは関係がない。
わたしたちの関係は、傍目から見れば単なるセフレだ。だけどわたしはそれでも構わなかった。彼といると満たされると同時に切なく、自分が物語のヒロインになったような気がした。この3ヶ月、暇さえあれば彼に会いに行った。リョウスケは好きだ。だけどわたしが恋していたのは、彼というよりロマンチックな恋そのもの。わたしはいい歳をして、恋に恋する乙女だったのだ。
運命の恋がしたかった。
子供の頃、大人になったら自分にも運命的な出会いがあると信じていた。素敵な相手と惹かれ合い、大恋愛を経て結婚するのだと。けれど現実の恋は単なる『選択』だった。出会える範囲の異性から、諸々の条件でフィルタリングして、お互いの出方をうかがいながら近づいてゆく。シンちゃんだってそうだった。同窓会で再会した頃、仮にどちらかに恋人がいたら、障害を乗り越えてまで相手を求めはしなかっただろう。お互い恋人がおらず、見た目や雰囲気が嫌いじゃなかった。あと当時、住んでた家が近いとわかった。じゃあ今度一緒に食事でも。……そんな感じの始まりだった。妥協とまでは言わないけれど、運命と呼ぶにはあまりにチープだ。
真面目に働く優しい彼氏と、結婚前提の同棲中。じゅうぶん幸せなはずなのに、胸に子供っぽい願望がくすぶる。そんな時、リョウスケに再会してしまった。公演に顔を出したのは気まぐれで、再会は奇跡的――何を奇跡とするかはわたしのさじ加減だけど――だった。リョウスケの輝くばかりの美しさも、運命と錯覚させるに一役買った。
シンちゃん以外の知り合いのひとりもいない浦和。シンちゃんがこの街を選んだのは、彼の勤める私立高校へ通いやすいからだ。わたしには縁もゆかりもない。在宅でイラストレーターとして働くわたしより、毎日通勤する彼に合わせて住む場所を選ぶのは当然のこと。……だけど、当然なんだけど、わたしの夢見た物語の舞台は浦和じゃなかった。あまりに現実的な理由でここに住み、こうして放り出されている。シンちゃんとはこれで終わりだろうか。でもきっと、わたしたちはすぐにお互いの代わりを見つける。この人じゃなきゃとは思ってないし、彼だってたぶん思っていない。ロマンチックな理想のために安定した未来を失うなんて馬鹿げているけど、たぶんわたしは馬鹿なのだ。池袋まで18分。生まれ育った島よりずっと便利なこの土地を捨て、ディズニーランドに住みたいと駄々をこねるみたいな幼稚さだった。
リョウスケは空っぽの機械みたいな人だけど、優しい。軽く、包み込みようで、数秒後には空気に溶けて何も残さず消えていく……そういう煙みたいな軽やかな優しさを惜しみなくくれる。彼の辞書に責任なんて言葉はないのはわかっている。でも今は、やわらかな夢を見ていたい。
マンションには帰れない。ひと晩を明かす場所を見つけなきゃいけない。深夜に押しかけられるような家は、リョウスケ以外に思いつかない。だけど毎週月曜の夜、リョウスケは連絡がつかなくなる。はっきりとは言わないが、彼の時間を金で買っている女がいるようだ。彼に課金していないわたしが文句を言える筋合いはない。両目からボロボロこぼれる涙を拭きもせず、わたしは誰ひとりわたしを愛さない街を歩き続けた。
おしまい
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