あなたが指定したカフェはどの駅からも微妙に遠く、しかもその日は雨でした。約束時間の5分前。わたしは入り口の前でお気に入りの傘についた雫を払い、愛想の良い店員に待ち合わせだと伝えました。
通された席は窓際で、ひんやりとした空気に足先からスカートの中までを撫で上げられるような心地がしました。窓から見えるのは、灰色の空とビルとマンション。どこにでもある東京の風景です。目の前の古いアパートの端のベランダでは、洗濯物が干しっぱなしになっていました。雨が降りだしたのは昨日なのに、住人は何をしているのでしょう?
温かい紅茶を注文し、わたしはあなたを待つことにしました。あなたが時間を守ることを期待しなくなり数年が経ちます。
あなたは25分遅れでやってきました。出がけにトラブルがあったそうです。「どうせ……」となじる言葉が喉まで出たけれど、もう大人なので飲み込みました。あなたはよれたスウェット素材のワンピースに、毛玉のついたカーディガンを羽織っていました。メイクはやはりしていません。「あきらめたんだな」と思いました。あなたの左の頬骨のあたりは紫色でした。
注文を聞きにきた店員はあなたの顔を見て目を瞠りましたが、すぐに接客用の笑顔を作り直しました。あなたはアイスコーヒーを頼みました。妙に明るい声色でした。
あなたはわたしの格好を見て、仕事帰りかと聞きました。わたしがうなずくと、そっか、ごめんね、来てくれてありがとうなどと、適切な言葉を並べました。「わざわざ会いに来てくれるのは、もうマコしかいないから」などと卑屈な笑みを貼り付けて。
「仕事、広報になったんだっけ。順調? 最近マコの会社のCMよく見る。すごいね景気よさそうじゃん。私はまだ無職です。このあたり微妙にアクセス悪いじゃない? ドアtoドア20分以内って考えると、電車通勤ほぼ無理だしさ。近所で土日休みで接客じゃなくて残業もなくて……って考えると、選択肢なんてほとんどない」
あなたは何かに追われるように早口でまくしたてました。先程とは別の店員が、コースターとアイスコーヒーをあなたの前に置きました。あなたはストローをテーブルに突き立てるようにして紙袋を破り、投げ入れるみたいにグラスにさしました。
「彼は働かなくても良いって言ってくれてるけど……ねぇ。まだ結婚だってしてないんだよ? 家賃も全部彼持ちだし、なんだか悪い気がするよ。彼が一生懸命働いたお金で、私ばっかり楽してさぁ。最近、彼また昇進したんだ。忙しくってストレスもすごいみたい。その……だから仕方ないんだよ。ね?」
そう言ってあなたは、自分の左目の下を指でなぞりました。
「たまにちょっと……なんて言うのかな。感情の抑えが効かなくなる? 効きづらくなる? ていうか。ね。はは。でも全然、大したことないよ。全然。これだってちょっと小突かれた時に、自分でソファの肘掛けにぶつけちゃったの。ね。だから全然大丈夫なんだけど」
あなたはストローに口をつけましたが、中身はまったく減っていないように見えました。あなたはわたしと目を合わせず、窓の外、コーヒー、テーブル、わたしの鳩尾あたりなど、せわしなく視線をさまよわせています。それでも口元は笑顔の形をキープして、ひとりで話を続けました。
「そうだ。クリスマス……マコはクリスマスは何してた? うちは彼がすごく良いホテルをとってくれて、ディナーは表参道のナリサワに連れてってくれた。ミシュラン2つ星だって。久しぶりにおめかしできて楽しかったな。イベントにここまでしてくれる人は初めて。花束も……あ、ちょっと待って。スマホ見て良い?」
わたしの返事を待たず、あなたはiPhoneを手に取り素早く何かを打ち込みました。操作が終わると、ブラックコーヒーを無意味にかき混ぜ、飲まずにコースターの上に戻しました。頬杖をつき、今思い出したようにあなたは続けます。
「そうだ。カリンたちは元気? ナミも結婚したんだね。インスタで見た。スミカは海外転勤? すごいね。しばらく会えなくなるのかな……まぁ私はずっと会ってないけど。この前、みんなでランチしてたよね。楽しそうだった。でもあんなとこ、私は行けないから仕方ないよね」
今日のわたしは、絶対に謝らないと決めていました。そこから短くはない沈黙があり、あなたが絞りだしたのは、「みんなは私のこと、何て言っている?」という問いでした。嘘をつく気はなかったので、わたしは正直に答えました。「何も言っていないよ」と。およそ2時間半のランチとお茶で、あなたの話題は本当に一度も出ませんでした。
あなたは少し傷ついた顔をしました。かつてのわたしはこの顔に弱く、あなたのためなら何でもしてあげたいと思っていました。今だってそう思っています。けれど、何もさせてくれないのがあなたという人です。店内でかかっていた古いジャズと、強さを増した雨音が混じってわたしたちの間を居心地悪そうに漂っていました。
「なんか……逆に陰湿って感じがする。わざと触れない、みたいな?」
あなたはハハハと笑いました。いえ、あたかも笑ったかのようにハハハと発音しました。「逆に」の意味はわたしにはわかりませんでしたし、たぶんあなたにもわかっていないのでしょう。
「男の人に養ってもらうのって、そんなにダメかなぁ」
あなたがストローでグラスの縁をなぞり、窓の方に顔を向けたので、わたしからは顔の右半分しか見えなくなりました。つるりとした綺麗な横顔でした。ずっとそのまま、アザのない顔だけを見せてほしいと思いました。
「女が全員、働かないといけないなんて誰が決めたの」
不当なルールを押し付けられているかのようにあなたは言います。でもそれは存在しないルールでした。SNSには載せていませんが、ナミだって2ヶ月前から専業主婦です。
あなたが遠巻きにされている理由は、素敵な彼氏に養われながらタワマンに住んでいるからではなく、DV男に支配され、何度も約束をドタキャンし、裸足で部屋から放り出され、仕方なく友達の家まで行くもお金がないのでタクシー代を友達に払わせ、後から彼氏がひとことの侘びもなく現金書留でタクシー代を送ってよこし、外出を制限されたあなたは家から20分以内の場所までしか出歩けず、彼と一緒の時以外は化粧も禁止され、常にビデオ通話可能な環境にいることを求められ、罵倒され、見下され、殴られ、怪我をし、何度周りに別れろと言われても絶対に別れないからです。
「これだから女ってイヤだよね」
窓に落ちる雨粒を見ながらあなたはそう吐き捨てましたが、それはあなたの彼氏の口癖だったはずでした。
彼と付き合いはじめてすぐ、あなたは彼を紹介してくれました。
初めて会ったあなたの彼氏は落ち着いていて余裕があり、とても素敵に見えました。でも折々で「さっぱりしていて、良い意味で女っぽくない」「女の陰湿さを感じない」なんて言葉でわたしを誉めたつもりになっていたし、あなたのことを「団体行動が苦手だし、お世辞が言えるタイプじゃないから」「女にいじめられないか心配」とも言っていました。彼の中では、女は陰湿で嫉妬深く、少しでもはみ出す同性を許さない生き物のようでした。
あの時の違和感をすぐにあなたに伝えていれば、あなたは今でも大好きだったAddictionのチークやネイルを身に纏い、お気に入りだったバカみたいにデカいピアスをつけて、ゴールデン街でベロベロに酔って、ほぼ無地なのに5万円するジルサンダーのTシャツに安物のワインをこぼして泣きながら笑っていたでしょうか。
わたしはあなたの、はっとするような色のリップを塗って豪快に笑った顔が好きでした。でももしも、あなたがファッションやメイクへの興味を失っても、ギャルになっても、オタクになっても、叶姉妹みたいになっても、女子アナ風でも、ロリータでもビジュアル系でも、地雷系でもセレブでもユニセックスでもユニクロでも、イチジクの葉で胸と股間だけを隠していても、あなたが好きでそうしていたなら、わたしはあなたを大好きだったと思います。
けれどもう、あなたはあなたの意志を失い、彼の一部になってしまったみたいです。あなたのことが心配で、DV相談窓口を探したカリン、家に匿おうとしたナミ、引越しにかかる初期費用から生活費まで貸すつもりだったスミカ。全員あなたの幸福を妬んで引き裂こうとする陰湿な女ということですか。
あなたが彼の考えに心の底から同調し、幸せならまだいいのです。けれど、あなたは正しくないと知っていながら、すべての不都合や不幸や不安の理由に彼の主張を採用しました。この数年間、あなたは彼を選び続けています。
……どうしてですか?
自由や権利と引き換えにしても、彼との生活が大事ですが。その他の人間関係なんて、取るに足らないものですか。彼が高年収で、有名企業に勤めていて、身長が180センチで、顔が窪田正孝にちょっと似ていて、東京出身の次男で、何より男性だからですか。わたしだって、そこそこ稼ぐし有名企業の正社員です。身長は160センチしかないけど、たまに中村アンに似てるって言われるし、出身だって東京です。でもダメですか。女だからですか。ねぇもしも、……もしもですけど、わたしが彼の倍以上稼ぐエリートで、身長185センチで、顔も窪田正孝そのもので、NY出身の四男で男性だったとしたら、選んでくれていたりしますか。あ、いいえ、答えによっては死にたくなるので聞きたくないです。
「別れて」
3。ほぼ相槌のみに終始していたわたしが、脈絡なくそう言ったので、あなたは「え?」という顔をしました。これを言うためにわたしは電車を乗り継いできました。今までも100回は伝えた言葉です。そして今日。ラスト3回と決めています。
「な……なんで?」
あなたはそう尋ねてきたけれど、今さら理由を述べる必要があるとは思えませんでした。わたしは黙ってあなたの目を見つめ続けます。残機は2。無駄打ちしたくはありませんでした。
狼狽したあなたと目が合いました。茶色がかった瞳に一瞬おびえが浮かび、あなたは目を伏せました。一生使いきれないほどのアイシャドウを持っていたはずのあなたのまぶたは、ただひたすらに皮膚の色でした。ラメもパールもない、少しくすんだ肌色でした。
「関係ないじゃん。なんで彼とのことまで口出すわけ?」
「別れて」
2。関係ない。そうですか。わたしはあなたが好きだったので、好きな人が傷つけられているのが辛かったです。あなたの顔や全身のアザが、両者納得のSMや特殊性癖によるものならば、どんなハードなものであれ、引いたとしても止めません。でも違う。わたしに見て見ぬ振りをさせ、納得できない話を飲み込ませ、結婚式では「色々あったけど良かったね」なんて涙を流させるつもりですか。そんなの絶対ごめんです。
「友達でしょ?」
そうですね。幸せの形は人それぞれで、本人にしかわからない。あなたが幸せなのだと言うのなら、見守るべきかもしれません。でもそれは、カリンやナミやスミカやわたしにできることではなかった。何も強制できない『友達』であるわたしたちは、受け入れるか、離れるかしか道はない。そんな簡単なことに気づくのに、ずいぶんかかってしまいました。
「マコだけは信じてたのに」
うるせえ。そうやってあなたが気まぐれに放つ、羽根より軽い言葉のせいで、ずっとずっと離れられなかった。「マコだけ」「マコしか」「マコが1番好き」だなんてセリフを信じたかった。あなたの1番はわたしじゃなくて、未来永劫あのミソジニー野郎のくせに、テキトーなことを言うなボケ。最高の友達は最低の恋人に勝てない。最悪。
「マコ……」
そんな目でわたしを悪者にするな。この2年、目の前で親友の解体ショーを無理やり見せられたような心地のわたしに、これ以上何を求めるんですか。
「マコ、だって彼は……」
「別れて……」
1。叩きつけるように叫ぶつもりだったのに、語尾が震えて情けない。目頭がじわりと熱を持ち、鼻の奥がツンとします。でも、絶対に泣きたくなかった。だから歯を食いしばったけど、同じく泣き出しそうな顔のあなたが、彼を庇う言葉を探しているのがわかってしまって、わたしは千円札をテーブルに置いてひとりでカフェを出ることにしました。雨は降り続いていて、傘立てに入れたはずの傘はなくなっており、親友と傘を失ったわたしは、仕方なく雨に濡れながら大通りを目指しました。
あなたが追いかけてくることを、少し期待している自分がいました。でもあなたはきっと、あのカフェで被害者ヅラして少し泣いた後、クソミソジニーDV野郎の待つマンションに帰るのでしょう。そしてこういう時だけ優しいあのクソミソジニーDV野郎に頭を撫でられるなどして、わたしの決意も、あなたたちの愛だか執着だか共依存だかの燃料として消費されてしまうのでしょう。2人して燃え尽きて死んでくんないかな。
こうしてお姫様はタワマンに帰り、DV王子といつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。は? 何が?????? 一生タワマンから出るな。
おしまい
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