ミスの多い生涯を送ってきました。
「添付ファイルをご確認ください」と書いたメールをファイルを添付せず送り……なんてのは全然可愛い方で、取引先の偉い人の名前を間違え、発注数のケタをミスって途方に暮れ、コピー機を詰まらせ、共有ファイルを削除し、社員証をなくし、社用携帯は受け取った翌月バキバキにした。とにかく入社半年でやれるミスは全部やった。ブチ切れる上司! 鳴り止まぬクレーム! 始末書に次ぐ始末書! の、舐めてるとしか思えぬ誤字脱字!!! その度にフォローしてくれたのは、先輩の林さんでした。
林さんはすごくいい人で、後輩からの信頼も厚い。わたしの同期たちも「何かあれば林さん」だ。仕事が出来て、相談しやすく、柔軟な彼をみんな慕っていて、林さんの下に配属されたわたしは配属ガチャ大当たりです。
そんな林さんの態度が変わってきたのは、配属から3ヶ月ほどが経ってから。尻拭いをさせすぎて流石に嫌われた……とかならわかるんだけど、逆にどんどん優しくなっている。それは周りにもわかるくらいで、同期の嶋本くんは「バカな子ほど可愛いってやつだな」と笑うけど、七瀬は「個人的な思い入れがあるんじゃないの」と少し心配そうな顔をしていた。思慮深い七瀬らしくオブラートに包んでいたけれど、その中身はわたしでもわかる。
意識して生活してみると、七瀬の言葉を補強するような材料はそこかしこに転がっていた。やたらと合う視線。話しかけると、「愛想が良い」というレベルを超えて嬉しそう。最近増えた「◯◯が食べたい」「◯◯に行ってみたくて」という発言も、「行きましょうよ!」を待つような間と、こちらの様子をうかがう色がある。一度気づいてしまえば、見ないフリするのは難しかった。
林さんのことはとても好きだし尊敬している。でも、それは職場の先輩としてで、恋愛対象として見てはいない。林さんの見た目がどうとか、男性的な魅力がどうとか言うつもりはない。友達の彼氏だったら心から「素敵」だと思う。ただわたしが、職場恋愛が無理なだけ。わたしは仕事ができないくせに、「プライベートと仕事は別なんで」をやりたがる人間である(ていうか仕事ができなすぎて、それを知ってる職場の人とは付き合いたくないのかもしれない。草)。
好意の気配を感じてしまうと、前ほど無邪気に頼りづらい。借りを作れば作るほど、万が一告白された時に断りづらくなると思った。でもそんな意識でミスらないなら最初から完璧にこなしてるワケで、相変わらずわたしは何をやらせてもダメだった。もう観葉植物の水やりとか、そういう失敗しようのない役割だけを与えてほしい。結局、失敗の度にわたしは林さんを頼らざるを得ず、周りも「あいつの世話は林の担当」と冗談で言うようになった。外堀を埋められるようで怖いけど、無能なわたしはへらへら笑う他なかった。
林さんの好意は絶えず感じつつ、特に誘われたり、告白されたりせず半年が過ぎた。流石のわたしも仕事に慣れ、大きなミスが減ってきた……と思ったとたんにやらかした。大事な会議の日程を勘違いしており、資料がまったく出来ていないのに前日気づいた。急いでデータを集めた時点で既に定時で、朝までにスライドにまとめるには、ひとりではとても間に合わない。青くなるわたしに声をかけてくれたのは、やっぱり林さんだった。
ようやく資料がまとまったのは、終電の時間を過ぎて朝日が見えてきた頃だった。
「本当にごめんなさい」と頭を下げると、「間に合って良かった」と人の良い笑顔で林さんは応えた。
「それにしても、作業の手際が良くなったね。入社時から見たらすごい進歩だ」
缶コーヒーをデスクに置いた林さんは、そのまま右手でわたしの頭をポンポンと撫でた。それは自然な流れではなかった。一瞬の戸惑いと緊張があって、その上で「いける」と判断したのがわかってしまった。同性には決してしない接触。それをふたりきりのオフィスで行う意味。始発まであと30分。
「彼氏には連絡した? 心配してるんじゃない」
彼氏には先月フラれたばかりだ。普段なら選ばない恋人の話題に触れたのは、別れたことを知ってるからだと直感した。たぶん嶋本くんから聞いたんだろう。……「別れました」と言わせたいんだ。
適当に笑って誤魔化すと、林さんの顔に一瞬不安げな影がさす。
「あの、今日は本当にすみませんでした。ありがとうございます。タクシー代お支払いします」
「いいよ、そんな」
財布の中身を確認していると、林さんが慌てたように手を横に振る。いくらかの紙幣を受け取って、何も言わずにタクシーに乗ってくれたなら、どんなに楽だろうと思う。朝まで仕事を手伝わせておいて、本当にひどい話だけれど。
「安藤さんの力になれたなら、それだけで」
同期が集まる飲み会の席で、「そろそろ一発やらせてやれよ」と笑った嶋本くんの顔が頭をよぎった。「迷惑料にしちゃ安いだろ」と続けた彼は、七瀬を始め周りからボロクソに言われて謝ってきたし、そもそもかなり酔っていた。それでも多分、普段から思っていないとあの言葉は出ない。まったく気にしてなかった言葉が、今になって胸に重たく蘇る。
「……安藤さんは今、付き合ってる人いるの?」
林さんの後ろの大きな窓。空はもうだいぶ明るかった。……どうしてこの人は、誤魔化した話題を蒸し返すんだろう。いないと答えたらどうするんだろう。いると答えたらどうなのか。
みっともなくても、元彼にしがみついておけば良かったと思った。「彼氏がいるので」は、「わたしがあなたに心を寄せると不愉快に思う男性がいるので」の意味で、わたしが相手をどう思うかを一切語らずに済む魔法のカードだ。そんなカードを持っていないのは、とっくにバレてしまっている。
「いえ、今は……」
嘘をつくのは気がとがめ、正直に答えたわたしの目に映るのは、少し緊張した林さんだった。目には奇妙な興奮の色。
「それなら、僕と付き合ってくれない?」
林さん。
林さん。
ついに放たれたその言葉に、びっくりするほど絶望した。いつもの慎重な林さんなら、この状況での告白が、どんなに断りにくいかわかりますよね? 会社の先輩・後輩ってだけでも気まずいのに、朝まで仕事を手伝わせて、罪悪感を抱える今のわたしに、告白するのはフェアですか。
始発まで仕事をさせたのはわたしが悪いです。本当にごめんなさい。それでもわたしが嶋本くんなら、こんなこと絶対言わないですよね。「じゃあ今度ランチでも奢ってよ」ぐらいで、サクッと始発で帰るんでしょう。それなのに、どうしてわたしには、私的な関係を求めるんですか。
わたしは勉強は得意だし、見た目もアホそうに見えないけれど、実際アホだし隙だらけだ。そういう女は、ある層の男性に異常に需要がある。最初は純粋な善意で助けてくれるのだけど、そのうち「俺がいなくちゃダメなんだろう」と、『有能なオレ』の証拠みたいにわたしを側に置きたがり、わたしにその気がないとわかると手のひらを返す。
……林さんは彼らとは違う。この告白を断ったとして、態度を変えることはないだろう。断りづらいタイミングを、故意に選んだわけでもない。単純に、距離が縮まった感じがしたのが今だったのだ。ふたりきりで迎えた朝、後輩は恋人と別れたばかり。寝ずに作業して判断力が鈍っているのもあるかもしれない。とにかく、断りづらいとかそういうのは、今の林さんの頭にはない。
どんなに仕事で迷惑をかけようが、付き合うのとは別の話だ。当然、わたしには断る権利がある。だけど、林さんに頼るばかりで何も返せていないわたしは、この借りを今返すべきでないのか? という思いが捨てきれない。嶋本くんの「一発やらせろよ」が頭の中でリフレインする。いやいやいやいや。そんなのめちゃくちゃだし、林さんにも失礼だ。……そうだよね、七瀬?
わたしが答えられずにいると、何かを察した林さんは「ごめん、なんか間違えたね」と言って苦笑してみせた。口元は笑顔の形を繕っていたけど、傷ついているのがはっきりわかって、そんな林さんを見てわたしも傷ついた。わたしが受け入れれば良かったのか。こんなに優しくしてくれた人を、好きにならないわたしがおかしいのか。申し訳なくて、申し訳ないと思うことに納得いかなくて悔しかった。
始発までまだ少しあるけど、林さんは「コンビニに寄るから」とコートを取ってオフィスを出た。ひとりになったわたしは、完成した資料を前に涙が止まらなくなった。七瀬みたいに仕事ができれば、きっとあっさり断れたのに。仕事ができない自分が憎いし、仕事のできない女が好きな林さんのことも、今は少しだけ憎かった。
おしまい
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