去年の誕生日、彼から花束をもらった。わたしの好きなダイヤモンドリリーがふんだんに使われた大きな花束。幸せな気持ちで花束に顔をうずめるわたしに向かって彼は言った。
「30歳。俺に捨てられたら、無職の家無し30女になっちゃうね」
……もちろん冗談、ジョークである。
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8時に彼を送り出してからソファでうとうとし、目覚めたらすでに12時を回っていた。大きく伸びをして起き上がる。開け放した窓から吹き込む風が気持ちよかった。わたしは大きく伸びをしてキッチンに向かった。朝食で使った皿やコップがまだシンクの中に残っている。構わず小鍋で水を沸かして乾麺を突っ込み、冷蔵庫の中の野菜とベーコンを炒め、作り置きの味玉を乗っけてラーメンが完成。ローテーブルに鍋敷きを置き、器に移さずそのまま食べた。みんなが慌ただしく働いている平日の昼間に、わたしは何の不安もなくラーメンを啜っている。幸せだなぁ、と思った。
テレビをつけると、いつものワイドショーが始まっていた。わたしに関わりのない企業の不正、遠い地方の火事や知らない政治家の失言に続き、話題は大物お笑い芸人のスキャンダルに移った。仕事をやるとか干すとか言って、女性タレントたちに関係を強要したらしい。被害者は名乗り出ているだけで5名。中には、数ヶ月前まで彼の番組に出演していた女優もいた。
……また、こんなニュース。
わたしは不愉快になってテレビを消して、まだ少し残っている麺とほうれん草を生ごみにした。こういう時は掃除に限る。鍋や食器を一気に洗い、作業台を消毒した勢いでコンロの五徳まで磨いた。それから窓を拭き、玄関とリビングに掃除機をかけ、玄関の掃き掃除を無心でこなした。一度も手を休めることなく、最後にトイレのドアを開く。
ワイパーで棚の埃を落としていると、ふと「あの日もトイレ掃除をしたな」と思った。あの日……マコが会いにきてくれたのはいつだったっけ。2ヶ月、いや3ヶ月前? 雨が降っていたのは覚えている。
……マコと会うことは、何週間も前から彼に伝えてあった。当日、日課の家事を早めに終わらせ、玄関で靴を履いている時に、トイレ掃除をしろと言われた。「帰ってからやる」と一応言ってはみたけれど、聞き入れてもらえるはずもなかった。ついでにトイレットペーパーの買い出しまで命じられ、それこそ帰りに買ってくるのにと思ったけど、反抗したところで無駄。それどころか彼が機嫌を悪くするだけなので、「わかった」と返事して、財布をポケットに入れて部屋を出た。
エレベーターを降りて走った。わたしたちの住むマンションの向かいのビルの一階はファミマで、その隣にはスーパーが入っている。でもトイレットペーパーは、駅前のマツキヨで買う決まり。駅までは徒歩15分。走れば10分? 帰りはトイレットペーパーを抱えて走った。薄いワンピースの裾が足にまとわりついて不快だった。
家に帰った時点で待ち合わせ時間は過ぎていた。薄々予想はしていたけれど、トイレの収納庫の中は、すでにトイレットペーパーのストックでパンパンだった。胃のあたりがぎゅっと苦しくなる。さっき買ってきたトイレットペーパーは、未開封のままクローゼットの隅にしまった。
トイレ掃除が終わったと告げると、朝からパソコンの前から動かなかった彼がのそりと立ち上がった。ひと通りトイレを点検し、汚れが残っていないか確認する。その緩慢な動作に泣きたくなる。待ち合わせ時間からすでに15分以上過ぎていた。ようやく許可をもらえた私は手を洗い、はやる気持ちを抑えて玄関に向かう。
「マコと、ちょっとだけお茶してきます」
返事はない。鍵をかけ、わたしは再びエレベーターを降り、エントランスを出て、やっぱり走った。
マコは窓際の席で文庫本を読んでいた。背筋が伸びた美しい座り姿だった。肩までの髪をひとつに束ね、ほんのりピンクに色づいたパールのピアスをつけている。袖のふくらんだ真っ白なシャツと、凝った柄のタイトスカート。足元はシルバーのバレエシューズ。シンプルながら上品で、ちょっと尖ったそのスタイルは、マコの内面をよく表している。
……わたしは?
部屋着みたいなワンピースに、数年前に買ったカーディガン。ワンピースはGUだけど、カーディガンは彼と付き合う前に買ったものだから、そんなに安物でもないはずだ。でもろくに手入れもせずに着倒しているのでボロボロだ。
カフェのガラス戸に映るわたしの左の頬は青紫色に腫れていた。コンシーラーを塗ってくれば良かったと思う。今からでも家に戻って……だけどそうしたら、ここにはもう来れないかもしれない。ドラッグストアに飛び込んで安い化粧品を買う手もあるけど、今のわたしに自由に使えるお金はなかった。わたしは覚悟を決め、何食わぬ顔でカフェのドアを開いた。...