(※性暴力の描写があります)
「そういえばこの前、田中さんに会ったんだよね」
銀座にある小さなレストラン。食後のコーヒーを飲みながら、そう言ったのはマナでした。
先日お気に入りのカフェで読書をしていたら、田中さんに声をかけられたそうです。外回りの合間らしくスーツ姿の田中さんは、マナを見つけると勝手に向かいの席につき、ガツガツとカレーを食べながら延々と娘の話をして、恩着せがましく伝票を取って去っていったとか。
そのエピソードを語るマナの心底嫌そうな表情と、周りのみんなの「最悪」「可哀想」「キッツ」という反応から、田中さんの人柄はわかっていただけると思います。
マナが差し出したスマホには、インスタの画面が表示されています。田中さんのアカウントでした。半ば強制的にフォローさせられたそうです。
アップされているのは、ほとんどが娘のサクラちゃんの写真です。最新の投稿は、2歳の誕生日を迎え、少しおめかししたサクラちゃん。バルーンやぬいぐるみで飾られたお部屋は、見てるとゲップが出そうなくらい愛情いっぱい。キャプションにはサクラちゃんが健康でこの日を迎えられたことへの感謝、すくすく育っていく日々の尊さが長文で書き添えられています。
「そっくりだね」
「うん」
「ほんとに似てる」
「ね」
女5人で子供の写真を眺めつつ、誰ひとり「可愛い」と言わない状況。異様でもあり、妙な連帯感もありました。するすると写真をスクロールするユウコの指。爪は光沢のあるピンク色に塗られています。しばらくして、その指がぴたりと止まりました。
「ていうかミナ、めっちゃいいねしてるじゃん」
インスタは、誰かの投稿に共通のフォロワーがいいねを押すと、アカウント名が表示される仕様です。そうです。わたしはずっと前から田中さんのインスタをフォローして、すべての投稿にいいねを押しています。
「五寸釘……」
「え?」
呟いた声は小さすぎて、肘がぶつかりそうな距離にいるマナにさえ届きませんでした。でもそれでいい。わたしが藁人形に五寸釘を打つ感覚で田中さんにいいねを送っていることなど、誰にも知られずにいるべきなのです。
田中アツヒトさんは大学の先輩です。学年はわたしたちよりひとつ上でした。高校までサッカー強豪校で熾烈なレギュラー争いをしていただけあって、強靭な体とよく通る声を持っています。いつでも輪の中心にいて、自分の意見をはっきり言う。彼の口から放たれれば、根拠のない断言も、自信たっぷりの響きをまとって影響力を持ちました。
田中さんは一見、面倒見の良い先輩の顔をしています。けれど、会ってしばらく経つとわかるのですが、田中さんは女が好きですが、それ以上に男が好きでした。この『好き』は恋愛感情を指すのではなく、女への『好き』は性欲で、男への『好き』は人間として、仲間としてです。もっと正確に言えば、女の体は好きだが女自体は見下している、本当の仲間は男だけ、男に認められるためならなんでもやる、といった具合です。
『なんでも』の内容を具体的に言いますね。例えば、飲み会やイベントで女子学生をやや強引に持ち帰り、その数と質(容姿と偏差値の掛け算だそうです)を先輩と競う。学校、バイト先、ナンパ、アプリでそれぞれ彼女やセフレをつくり、何股もかける。その結果病んだ彼女らの言動や、性行為中の様子を明け透けに話して笑いをとる。ある先輩が浮気がバレてフラれた際は、田中さんは先輩の元彼女に近づき、何ヶ月もかけ信頼させ、酒を飲ませてホテルに連れ込んだ上で「意外とヤリマンなんですね(笑)」と切り捨てたそうです。田中さんいわく、「先輩の仇をとった」とか。仇? 先輩は浮気がバレて死んだのしょうか?
……不思議なことですが、周りの男性、特に年上の人たちは、そんな田中さんをクズだと言いつつ可愛がっていました。とにかく、あの頃の田中さんは、女相手にどこまで非情になれるかのチキンレースに参加していて、その先頭を突っ走ることで一部の同姓たちの呆れと羨望と笑いを集める存在だったのです。
そんな田中さんが結婚したのは27歳の頃でした。相手は8歳年上の女性。相手が妊娠し、彼女の実家や諸々の事情で「逃げられなかった」と聞きました。家族だけで行った式の様子は、1枚もSNSに上がっていません。ただとある筋からの情報によると、鍵付きのTwitterではたいそう荒れていたそうな。様子が変わったのは娘のサクラちゃんが産まれてから。「こんなに愛しいと思うなんて、自分でも想像してなかった」そうです。何ということでしょう。愛が、愛が彼を変えたのです!(拍手)(涙)(大歓声)
憶測ですが、サクラちゃんは、田中さんの人生の中で初めての、人間として見られる女性なのではないでしょうか? これまで数百人、もしかしたら千人以上の女性と関わってきた中で、たったひとりの、傷つけてはいけないと思える、女である前に人間であると認められた、女の体を持つ『人間』。
田中さんはストーリーにガンガン娘の写真をアップするので、彼のインスタのフォロワーたちは親の顔よりサクラちゃんの顔を見ています。お気に入りの猿のぬいぐるみを手放さないサクラちゃん。田中さんに手を引かれ、よちよち歩くサクラちゃん。アンパンマンミュージアムで眠ってしまったサクラちゃん。父親である田中さんいわく『ウチのお姫様』である彼女が、この先どんな女性に成長しどんな男性と出会うのか、わたしも楽しみでなりません。若き日の田中さんみたいに、元気でやんちゃな男性と恋に落ちるかもしれませんね。
トイレで吐いているわたしに背後から近寄り、下着を脱がせた田中さん。泣いてやめてとお願いしても無視しましたね。投げ捨てられた避妊具の包装は、最悪の絶望の中で、微かな光に見えました。帰り道、わたしの手の中には、田中さんのシャツのボタンがありました。田中さんに言われるまでもなく、誰にも言えませんでした。田中さんにとってのわたしはお姫様どころか人間でもなく、ただ目の前にある穴でした。
あの日、なけなしの力でシャツのボタンを引きちぎった手で、いいねボタンを押しています。これはワンタップでできる呪い。あの時の恐怖は時間と共に悲しみに変わり、悲しみが徐々に蒸発し、乾いた憎悪が残りました。わたしはこれからも、インスタ上で藁人形に五寸釘を打ち続ける。静かで陰湿で、誰にも伝わらぬささやかな呪いです。この呪いがいつか実を結ぶなら、矢のように田中さんだけを射抜いてほしい。子供に罪はないのです。誰の娘でも、姫じゃなくても、みんな人間であるように。でももしも、この手軽な呪いが爆弾となって田中さんの大切なすべてを壊してしまったとしても、仕方がないとも思います。善良なわたしはあの日のトイレで死にました。
わたしが毎回投稿にいいねしてくることを、彼はどう思っているのでしょう。未だブロックされていないのは、彼があの出来事を……もしくはわたしの存在を忘れているからでしょうか。
ユウコたちと別れた後、電車でインスタを開いたら、田中さんが新たにストーリーを更新していました。田中家はお出かけだったようで、あらゆる角度からサクラちゃんを撮った写真がアップされています。もちろんわたしは心をこめて、すべての投稿にいいねを送ったのでした。
おしまい
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