「いい加減まともな男を見つけろ」
390円のビール片手に諭されたあの日、ハタチのわたしが「まともな男なんかどこにもいない」とわめいたら、ちょっと間をおいて佐藤が言った。「……俺は?」。唖然。
佐藤は大学の同期だけど、年齢は2つ上だった。いつでも甘やかすでも突き放すでもない対応をしてくれるから、何かあるとみんな佐藤を頼った。
そんな佐藤の「俺は?」が冗談でないのを察した時の、足もとが崩れてゆく感覚。わたしは「何言ってるの」と笑顔で逃げて、佐藤も「だよな」と逃してくれた。
大学の仲間は卒業してからも仲が良く、何かと理由をつけては集まっていた。ある日の飲み会で、長い間彼女がいないことをからかわれた佐藤が「でも好きな人がいる」「無理かもしれないけど告白するつもり」と言い出した時は、場は大いに盛り上がった。
たまたま彼氏と別れたばかりの(そして、それを佐藤に知られている)わたしは、ビールにちびちび口をつけながら、やばい、やばいと目を泳がせていた。この飲み会の後、わたしは佐藤とふたりで駅まで歩かねばならない。
みんなと別れてから、佐藤に口を開かせないよう、わたしはひとりで喋り続けた。実家の猫からレスリング世界大会まで話が飛躍したところで、佐藤が相槌をやめて黙り込む。あぁ。
佐藤が息を吸う。そして吐き出した「あのさ、」にかぶせて、わたしは一方的にまくしたてた。
「ねぇ佐藤、さっき好きな子がいるって言ってたじゃん、佐藤に想われるなんてその子も幸せ者だよね、でも佐藤にふさわしい子って他にいるんだと思う。ほら見て、高校の友達のユキちゃん。彼氏欲しいんだって。可愛いでしょ? 佐藤ならわたしも安心しておすすめできるし……どう?」
うつむいたわたしの頬の熱さを、2月の冷気がさらっていく。佐藤の顔を見られなかった。いつかの居酒屋みたいな沈黙に、心臓がじわじわ締め付けられる。
「……ありがとう。会ってみる」
こうして佐藤は、再びわたしを逃してくれた。
ユキちゃんと佐藤を引き合わせてから、トントン拍子にことは進んだ。佐藤はもちろん、ユキちゃんもほんとうにいい子なので、ふたりの幸せを心の底から嬉しく思ったし、ほっとした。これで佐藤はこれからも……。
ふたりが付き合い始めて3ヶ月ほど経った時、珍しく佐藤に呼び出された。佐藤が店を予約していたので、ふたりで個室の飲み屋に入る。
一杯700円のビールが水みたいに体にしみた。「で、今日は何の話?」と枝豆をつまみながら尋ねると、「呼び出しといてなんだけど」と前置きをして佐藤は続けた。「もうふたりでは会わないし、連絡もしないでくれるかな」。
わたしの指から枝豆が落ちる。ベタなドラマみたいだった。
なんで、と言ったのか、言えなかったのか覚えてない。笑顔をひっこめるタイミングを失ったわたしに、佐藤も苦笑いをした。「理由は、言わなくてもいいよね」。
なんで今さら。まず一番にそう思った。けれど間が持たないのが怖くて、「あぁ、ユキちゃんに悪いもんね」なんて馬鹿なことを口にしてしまった。あの子は彼氏の女友達にいちいちやきもちを焼いたりしない。そういうユキちゃんだからこそ、わたしは佐藤を紹介した。落とした枝豆を拾おうとして、指が震えているのに気づいた。
「都合のいい男は今日でおしまい」
わたしを逃し続けてくれた佐藤は、今日だけは許してくれないみたいだ。はっとして顔を上げた時、佐藤の顔に笑みはなかった。
『都合のいい男』。
言葉が重く心にのしかかる。ねぇ待って、わたしはそんな風には一度も……とは流石に言えない。辛い時に胸を貸してくれて、見返りを求めなくて、好意はしらんぷりさせてくれる佐藤のことを『お兄さんみたい』とかほざいていたけど、実の兄はここまで優しくない。実の兄より『兄みたい』な他人が優しい理由は考えないようにしていた。
都合のいい男。言われてみればその通りだけど、突きつけられると苦しかった。傷つけた側のわたしが、なぜか。
「もう連絡もしないでほしい」
落ち着いた声で念を押された。
はっきりした告白さえなかったら、友達でいられると思っていた。でもそうじゃなかったみたいだ。仕方がないのはわかっているけど、感情がついていかなかった。
確かにわたしは甘えていたし、悪かったかもしれないけど、佐藤がわたしを好きにならなかったら何も変わらずにいられたのに。みんな佐藤が大好きなのに、どうして佐藤に好かれたわたしだけ、佐藤を失わなくてはいけないんだろう。
「じゃあ付き合おうよ」
席を立とうとする佐藤に向かって、焦って放った自分の言葉。じゃあってなんだよ。醜悪。墓穴。わかっているのに、掘り進まずにはいられなかった。
「自分で紹介したんだけどね、佐藤がユキちゃんと付き合いだしてからわたし、何だかモヤモヤしてて、佐藤のこと好きだったんだって気づいたんだよ。彼氏とは別れようと……じゃなくて別れる。今日はそれを伝えに、わたし」
嘘だった。世界一薄い「好き」だった。今日だって彼氏の他愛のない、のろけみたいな愚痴を聞かせに来た。それなのにぺらぺらと嘘を並べる自分が気持ち悪くて、最悪で、でも意外と機転が利くなと感心したりで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。でも本当に、佐藤を失うくらいなら、彼氏やユキちゃんを裏切ってもいい。だって彼氏や友達は作れても、こんなにも優しくて、わたしのすべてを許してくれる、お兄さんみたいな、……ううん、このさい認めよう。都合のいい、そう、こんなに都合のいい存在には、この先きっと出会えない。ごめんなさい。テーブルの上で拳を握りしめている佐藤に、いっそ殴ってほしかった。
彼女がダメならセフレでいい。だからもう会わないなんて言わないでほしい。全力で媚びた視線を送る。佐藤という人間の決意を、身体を使って捻じ曲げようとする卑劣さが痛い。ユキちゃんも軽蔑するだろう。それでもわたしは、彼氏よりも友達よりも、都合がいい男がいなくなることに耐えられない。そんな自分に絶望してもいた。
佐藤の目は、切ない葛藤をしているようにも、心底軽蔑しているようにも見えた。それでも、もう会えないなら、これが最期の機会であるなら、一縷の望みに託すしかない。みじめなわたしは震える声で繰り返す。
「ねぇ佐藤、わたしたち付き合おうよ」
おしまい