悪いことは続くもので、めちゃくちゃ好きな男が本命彼女にすがりつく様を見せられた翌週、知らない人からLINEが来たので見てみたら、不倫相手の奥さんだった。「お話ししたいことがあります」だそうだ。そりゃそうでしょうねとマミコは思った。
土曜日の午後に会いたいと言われ、マミコは週末の予定をすべてキャンセルした。添付された店のurlを確認すると、新江古田にあるカフェだった。どうやら個室もあるようだ。
印鑑を持ってこいとの指示を受け、マミコは銀行印と一緒に保管している通帳を開いた。マミコのマンションは叔母の持ち物で、家賃を格安にしてもらっている。なのでマミコは収入のわりに貯金は多い。けれど、それは日々の小さな努力でコツコツ『貯めた』お金であって、楽して『貯まった』わけではない。不倫の慰謝料の相場は50万から。こんなことで何十万……場合によっては百万単位で貯金を失うのは痛手だが、今はすべてが投げやりな気持ちで、どうでもいいとさえ思っていた。
不倫、慰謝料、会社バレ、なんて単語とともに浮かぶのは、セリザワさんやその奥さんより、今回の件とは無関係の、好きな男とその彼女の顔だった。あれ以来、テツくんからの連絡はない。スガワラさんは意見を変えず、ちゃんと別れてくれただろうか。
カフェに着くと、やはり個室に通された。先に到着していたセリザワさんの奥さんのお腹は、丸く大きく膨らんでいる。予定日が近いのは明らかだった。
最近のマミコはセリザワさんとはあまり会っていなかった。それは奥さんへの気遣いではなく、単にテツくんにかまけていただけだけれど、このタイミングでバレるのは最悪。バレた経緯は知らないが、セリザワさんは信じられないくらいうかつで雑だ。奥さんのこと、ナメてるんだろうな……とマミコは自分を棚に上げながら思った。
この日のマミコはシンプルなワンピースを着ていた。足元はローヒールのパンプスで、アクセサリーの類は一切つけていない。就活メイク、お仕事メイク、デートメイクを教える記事は多々あれど、不倫相手の配偶者に謝りに行く時のメイクのハウツーは、どこのメディアにも載っていない。インターネットは肝心な時に役に立たない。不倫の恋の相手みたいに。
散々迷った結果、髪はおくれ毛なしのアップにした。肌はボビイブラウンのスキンロングウェアウェイトレスファンデーションでセミマット(※1)。マスカラはせず、まぶたにはルナソルのスキンモデリングアイズでナチュラルなグラデーションをつくり(※2)、頬にはクリニークのチークポップの05番、ヌードポップを薄く入れた(※3)。店員が扉を閉めてすぐ、マミコは無言で頭を下げた。
座ってください、と言われてテーブルを挟んで向かい合っても、マミコはまともにセリザワさんの奥さんを見られなかった。落ち着かず、視線はテーブルの上の自分の指先に置く。ネイルは昨日落としてきた。
飲み物が運ばれてきた。カップに指をかけた瞬間、奥さんから別れてくださいと言われ、マミコはもちろん頷いた。その時はじめて、マミコは謝罪を口にできた。申し訳ありませんでした。後悔の気持ちが胸で渦巻く。頭を下げたマミコは、テーブルの木目を見つめ続けることしかできない。
顔を上げてくださいと声をかけられたマミコの目の前にいる女性の顔には、怒りの色はないように見えた。無。強いて言うなら、少し緊張しているのか早口だ。目の下のクマが濃さからは疲労を感じる。
うちはやり直します。
そう奥さんははっきりそう言った。子供たちはパパが大好きなので、引き離すことはできないと。セリザワさんは会社を辞め、奥さんの兄が継いでいる事業を手伝うそうだ。そのため、再来月には練馬の家を出て、一家で奥さんの地元である九州に引っ越すらしい。淡々と語る奥さんの目が、マミコの様子をうかがっている。すでに白旗を上げたマミコは、全自動謝罪マシーンとなって洒落たカーブを描く椅子の上で謝り続けるのみである。
セリザワさんの奥さんからは、そういうわけだからもう夫に関わらないでくれ、連絡先もこの場で消去し、二度と連絡しないでほしい。約束を破ったら、慰謝料を払うと念書を書いてほしいと言われた。有無を言わさず慰謝料を請求されるとばかり思っていたマミコにとっては渡りに船で、拒否する理由はひとつもない。サインと捺印が済むと、ほっとしたように奥さんがため息をついた。
結婚できると思ってました?
マミコが念書を手渡した際、ささやくように彼女が尋ねた。 奥さんの目や、無理やり持ち上げた口角から、はっきりと軽蔑が見てとれた。当然だと思う。マミコが答えあぐねていると、奥さんは続けた。あの人、私と絶対に別れたくないって泣いてましたよ。どうせあなたにも、結婚しようだの離婚するだの言ってたんでしょうけどね。
マミコは薄い記憶を呼び起こすが、セリザワさんがマミコと結婚する気はなかったと思う。「ここ数年は妻とは不仲」という設定だったし、「家ではまったく安らげない」けど「子供は幸せにしてやりたい」みたいな話はよくしていた……ような気がする。けれど、具体的に「奥さんと離婚」「マミコと結婚」なんて話があっただろうか。折に触れ家庭の話題を出してくるのは、「ゆ〜ても自分結婚してるんで! そこんとこよろしくお願いしますね!!」という牽制なのだと思っていた。テツくんが軽くつぶやいた「やっぱマミコなんだよな」は頭の中で数千万回再生しているが、セリザワさんと話した内容はびっくりするくらい覚えていない。
マミコの戸惑いと沈黙を、ショックを受けていると捉えたのだろうか。セリザワさんの奥さんはますます笑みを深めて言った。そうですよ。あなただけじゃなかったんです。
……あ、そっち?
「あなたにも言ってたんでしょうけど」は「あなた以外にも女がいますよ」の意味だったのか。意外と言えば意外であったが、不倫相手がマミコだけではなかったことは、むしろマミコの心を軽くした。セリザワさん、本当にしょうもないですね……そんな思いはもちろんおくびにも出さず、マミコは黙って相手の出方を見守る。沈黙は金。
マミコは唇を噛み、眉にグッと力を入れる。この表情が、何かに耐えているように見えるのを、マミコは知っていた。
その後の数分間の沈黙を破ったのは、セリザワさんの奥さんの方だった。
……ごめんなさい。
え? マミコは意味がわからず首を傾げる。ハンカチで口元をおさえた奥さんの瞳は涙に濡れていた。手元や背中が震えているが、まさかマミコがさするわけにもいかないだろう。マミコは奥さんが落ち着くまで、大人しく距離を保っていた。
少し落ち着いた奥さんは、他に女がいたなんて、あなたに話さなくてもいいことなのに、傷つける目的で言ってしまった。あなたはちゃんと謝ってくれたのに、自分は嫌な女だと思う。……みたいなことをポツポツ話した。いやいや……。マミコが言えることではないが、奥さんにはそれくらい言う権利はある。良い人なんだろうなとマミコは思う。この良い人に意地悪なことを言わせたのは、セリザワさんと、マミコたち不倫相手である。
聞けば、もうひとりの不倫相手とは、マミコの前に会ったらしい。相手は20歳の女の子。真剣にセリザワさんとの結婚を考えていたという。その子の話では、離婚するから待っていてくれ、君と結婚したいとセリザワさんもいつも言ってたと。彼女は念書も拒否して、慰謝料を払うからセリザワさんと離婚してくれ、自分は別れないと言い切ったらしい。すげぇ。そんな大物と対峙した後がマミコでは、奥さんも拍子抜けだっただろう。
本当は、旦那を今の会社に残してあなたたちに会社を辞めてもらおうと思ったんです。でも、社内でふたりも手を出しているようじゃあね……。
奥さんは再びため息をつくが、今度はマミコの心臓が跳ねた。……社内でふたり? もうひとりの不倫相手も同じ会社にいるとして、若い女子社員はそう多くない。今年の新卒は全員四大卒だから、20歳で思い浮かぶのはひとり。役員のコネで入ってきた、大学中退の女の子。コミュニケーション能力皆無で、事務仕事以外は断固拒否する、扱いづらいと評判のマミコの後輩である。
セリザワさんもえらいところに手を出したな……と思うと同時に呆れる。いくらなんでも近場で調達しすぎである。奥さんと別れ、駅に向かって歩き出したマミコは目眩がしてひとりで別のカフェに入った。きっと奥さんが勘付いたのはマミコではなく、もうひとりの不倫相手――タケナカさんの存在だろう。マミコはついでに見つかったのだ。まぁ、これに関しては自分が悪いので文句は言えない。
奥さんは強くて優しい人だった。マミコが奥さんの立場なら、自分が離婚してもしなくても、必ず相手から慰謝料を取る。3人目が生まれるの……そう幸せそうに笑っていた彼女に、しかも臨月を迎えるタイミングで、こんな心労をかけたことに、改めて申し訳なくなった。
不倫がバレたらどうなるか、もちろんわかっているつもりだった。でも、ケーキの味を想像するのと実際味わうのは全然違う。マミコの前で泣いたあの人は、想像上の“奥さん”ではなく、真っ当に生きてきたひとりの人間だった。だから重いし、申し訳なくて胸が苦しい。けれど、マミコは自分という人間にとっくに絶望しきっているため、この感情はバレたからこそ生じた後悔であり、バレずにぬるっと終わっていれば、特に反省することなく生きていったであろうと確信していた。
こんな出来事があってなお、手頃な相手が既婚者で、絶対バレない保証つきなら、どうせマミコは今後も手を出すのだ。自分でも病気だと思う。マミコはとっくに壊れていて、修理できる人はこの世におらず、若さを消費しながら破滅に向かう一方な気がして、マミコはつらいな〜〜と思い、カフェの隅っこでバレないように涙をぬぐった。
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(※1)
ボビイブラウンスキンのロングウェアウェイトレスファンデーションは、崩れにくくて汗にも強く、あまりお直しができない時でも安心感がある。少量でもよく伸びて、厚塗り感が出ないのも良い。匂いはちょっと好き嫌いがあるが、使いやすくてちょうど良いセミマットなのでツヤ肌派のマミコも重宝しているファンデーション。
(※2)
ルナソルのスキンモデリングアイズはど定番、超名品、一生アイシャドウをひとつしか使えないなら絶対これ、でおなじみ。迷ったらコレ。安心感。不倫相手の配偶者への謝罪の際にも使うとはね。
可愛い色味のアイシャドウが大好きだけど、たったひとつを選ぶとしたら間違いなくルナソルのスキンモデリングアイズであり、「ベージュシャドウ?惹かれないな」と思っていたかつての私も、このナチュラルで極めて上品なのに謎の盛れ方をするコスメの前では跪かざるを得なかった、という報告です pic.twitter.com/blSWHakvff
— 白井瑶(しらいよう) (@shiraiyo_) 2019年1月5日
(※3)
ビジュアルが優勝しているので、いくつも欲しくなっちゃうチーク。05は(マミコの肌からは)浮かないベージュで使いやすい。チーク塗ってる感はNGだけどちょっと立体感が欲しいというときに便利なので、ひとつ持っておいても良いと思う。
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