ゆらゆらタユタ

わたしのブログ

燃える燃える家の夢

23歳で結婚し、1年後に義理の両親と同居をはじめた。夫の母が腰を悪くし、ひとりで祖父の介護をするのが難しくなったことが理由だった。夫は地元で再就職した。介護はわたしの仕事になった。


はじめは義母とふたりで相手をしていたが、義母は少しずつ祖父から距離を取り、家事に逃げた。夫の祖父は認知症がかなり進んでいた。健康な時の姿を知っていたなら、まだ愛着を持てたかもしれない。けれど、初めて会った時から彼は病人だった。回復の見込みのない他人に意味なく罵倒され、排泄物の処理をする日々。わたしの心は削れていった。


夫にセックスを求められるのも辛かった。わたしは介護でクタクタで性欲どころではない。それでも夫はお構いなしだった。天井の木目を睨みながら、早く終われと念じていた。時には死んでほしいとも思った。けれど、身寄りも職もないわたしは、この人に捨てられたらおしまいなのだ。……その時はそう信じ込んでいた。

皮肉なことに、死を願いながらのセックスは、新しい命を生み出した。息子の誕生を、夫も義両親もたいそう喜んだ。息子の世話は主に義母がした。わたしがオムツを変えた回数は、息子より義理の祖父の方がずっと多い。


隠れて避妊していたのが露見したのは、息子が3つになる前だった。直接手こそあげられなかったが、夫が投げた灰皿が鏡台に当たって鏡が割れた。母の形見だった。破片を拾い集めながら、これはわたしの心だ、と思った。

その後ふたり目を妊娠し、臨月に入る前に義祖父が死んだ。葬式では、一度も介護を手伝わなかった義父の目に涙が浮かんでいた。父親の漏らした糞便を処理したことのない男だけが流せる、ぬるく美しい水滴だった。


義祖父の介護が必要無くなったので、第二子である娘の世話はわたしができることになった。息子は既に義母にべったり懐いており、義母も息子を手放さなかった。娘は可愛く、手がかからなくて、とても賢い子だった。わたしはその賢さに不安を覚えた。

不安は的中した。娘はあらゆる点で兄である息子より出来が良かった。平成の世にも男尊女卑を頑なに守っていた我が家では、賢い女は歓迎されない。娘は賢いが、家族の前で愚かなふりして媚を売る狡猾さは持ち合わせていなかった。頑なな態度は夫や義父母の反感を買い、余計な悪意を生むのではと思うと気が気じゃなかった。


案の定、夫は娘の大学進学を認めないという最悪のカードを切ってきた。娘の希望を切り捨てる夫の顔には醜悪な喜びが満ちていた。冷めていく料理を載せた食卓の下で、わたしは箸を握りしめていた。この箸を夫のこめかみに突き刺してやりたい。だけどわたしは弱虫で、膝に置いた手をじっと見つめることしかできなかった。


数日後の夜、わたしは寝室で夫に土下座して娘の学費を出すよう頼んだ。夫は気にうんざりしたように振る舞っていたが、唇の端に浮かぶ快楽は見逃しようがない。答えはもちろんノーだった。わたしが「では、この家に火をつけます」と言うと、夫は呆気に取られ、次に大笑いした。けれど、笑い終えてもわたしが真顔でいるのを見て、今度は頬を引き攣らせた。「ふざけたことを……」言うな、とまで言い切れなかったのは、わたしの目の奥に炎を見たからか。


この家で理不尽や孤独を感じる度、わたしは妄想の世界に逃げこんでいた。妄想の中のわたしは、裏の畑で膝を抱えて、煌々と燃える家を眺めている。わたしはなぜか子供の姿で、そばには両親……夫のではなく、わたしを産み育ててくれた本当の両親がいた。「燃えてるね」と父が言う。「燃えてるね」とわたしが答える。会話は幼い頃、一度だけ連れていってもらったキャンプの思い出をなぞっていた。張り切って焚き火の用意をした父だが、なかなか火をつけられず、隣にテントを張っていた家族がみかねて着火剤を貸してくれた。小さな火種が薪や新聞紙を喰らって大きく育っていく。わたしははしゃぎ、父は満足げだった。「燃えた、燃えた。綺麗だね」。夫がわたしの体を使って性欲を処理している間にも、わたしの瞼の裏では木造の平屋を無に返す炎が燃えていた。


夫は離婚だ、警察に突き出してやるとわめいていたが、最終的に要求を飲んだ。進学先は国公立に限る、卒業後は地元に戻るなど、さまざまな条件付きではあった。しかし一度0を1にしてしまえば、後から10や20にするのはそう難しくはない。幸い娘は優秀で、現役で国立大学に合格した。そして東京で就職した。夫は今度こそ本当に怒り狂ったが、外の世界を見たあの子が手元に帰ってくるなんて、本気で信じていたのなら、おめでたいとしか言いようがない。


娘とは隠れて連絡を取っていた。最初は電話で、数年後には彼女が用意したスマホを通じて。働きだした翌年、娘が東京に遊びに来ないかと誘ってくれた。自由になるお金のないわたしのために交通費まで出してくれた。何とか都合をつけ、家族への言い訳を作って向かった東京。約1年半ぶりに会った娘は、すっかり垢抜けて華やかな空気を纏っていた。帰り道、新幹線に乗るわたしの膝には百貨店の包みが載っていた。中身は水彩画のような模様の緑のスカーフだ。娘が立派に働いて、稼いだお金を使ってわたしを喜ばせようとしてくれたことが嬉しかった。滲んだ涙をハンカチでぬぐう。もう何もいらないと思えた。


しばらく年に1、2回、東京の娘に会いにいった。娘は一度も地元に帰らず、4年前に相次いで死んだ義父母の葬式にも出席しなかった。ちなみに死因は義母は癌、義父は事故だった。義母が亡くなってすぐ、義父に認知症の症状が見え始めた。再び迫る介護の予感に胸がざわついた矢先の事故だった。


ふたりを見送ってすぐ、息子夫婦との同居が決まった。息子と夫が決めたことだが、どうやら息子側からの提案だったらしい。昔から義母にべったりで、わたしとは決して仲が良いとは言えない息子との同居は気が重かった。……けれど、意外にもこのことによって、わたしの負担は大きく減った。


息子は優しかった。わたしの体調を気にかけ、小遣いを与え、家事の多くを自分の妻に担わせた。はじめは態度の違いに戸惑ったが、義母の死により、彼の中にたったひとつだけある『尊重すべき女性』の席が空いたので、わたしに回ってきた……そんなところだろう。立て続けに両親を亡くして意気消沈する夫に代わって、息子が家の――住人はたった4人だが――の頂点に立った。


急に自由になる金と時間が増えた。喜ばしいことなのに、30年間働き続けたわたしはどちらも持て余していた。テレビや映画を見ても心は躍らない。ジムやカルチャースクールもピンとこない。若い頃に好きだった水彩画の道具をもう一度買い揃えてみても、描きたいものはひとつも浮かんでこなかった。それでもせっかく買ったので、少しずつ絵の具をパレットにとり、試し描きみたいに画用紙に筆を滑らせていたある日、不意に自分の中の憎しみに気づいた。そうか、わたしは何もかも大嫌いだったのだ。義理の両親、押し付けられた夫の祖父、もちろん夫も。「お母さんはどうしてそんなに馬鹿なのぉ?」……義母の言葉を真似して、子供の頃からわたしを小馬鹿にしていた息子も同じだ。同時に彼らが怖くもあった。あらゆる感情を恐怖の重石で封じ込めてきた。けれど今、義理の祖父や両親はいない。息子は急に優しくなり、その息子に「母さんは奴隷じゃない!」と怒鳴られた夫はしょげかえった。その小さな背中を見た時、最後の重石も外れてしまった。溢れかえった感情に飲まれて塗りつぶした画用紙には、絵とも呼べない色の濁流がぶちまけられていた。くしゃくしゃにしてゴミ箱に捨て、以来一度も筆は握っていない。


家にいると心が荒む。だが家にしか居場所がない。息子の妻は週に数日パートで働きながら、家事の多くを担ってくれている。その彼女にも感謝どころか「義父が生きていれば、この子に介護をさせられたのに」とすら思ってしまい、自分の悪意に眩暈がした。


そんな生活の中で、娘と東京で会っている時だけは明るい気持ちになれた。忙しくも充実した日々を送る娘は、会う度に洗練されて綺麗になっていく。その成功の一端を担えたと思うと誇らしかったし、時には羨ましくて泣きそうになった。わたしには自立した自由な時間や、家族に尽くさない道はなかった。

いつしかわたしは、東京に住む娘との暮らしを夢見るようになっていた。厚かましいとはわかっている。娘には娘の人生があり、自由に生きてほしいと思う。けれど……その自由は、わたしがあの家から逃したから手に入ったものなのでは? わたしがあのとき夫に従っていたら、少なくとも今の豊かな暮らしはなかった。娘は大手のメーカーで冷凍食品の開発をしており、男性社員と同等に働いてキャリアを積んでいる。家族を養う経済力がないわけはない。結婚もする気がないようだし、わたしと一緒に住んでも問題はない……ように思うのだけど。あぁ、いや、でも。あの家で育ってしまったから、娘は家族を持たない選択をしたのかも。だとしたら、その責任は……。


食事、観劇、ショッピング。娘が趣向を凝らしたもてなしをしてくれる度、東京での日々を特別じゃなくていいから、日常にしてほしいと願ってしまう。でもわたしからはとても言えない。娘の拒絶や戸惑う顔は見たくないし、断らせるのも心が重い。だから、娘から「一緒に住もう」と言ってほしい。そうしたら、もうグッチの財布もジュエリーもいらない。……だけど1番ほしいものは、いつだって手に入らない。


「東京、遊ぶのはいいけど住むとこじゃないよ。またいつでも遊びに来てよ」

東京に住みたいと匂わせた時、娘は笑ってそう言った。何の含みもない笑顔に見えた。娘は素直な子だった。昔から感情がすぐに顔に出て、夫や義母の反感を買っていた。……本当に何も気づいていない? それとも長い東京生活で、鈍いふりをする器用さを手に入れたのか。わたしには判断しようがないが、とにかくわたしの帰る場所は、やはりあの田舎の家しかないようだった。


帰りの新幹線で、頬杖をついて窓に映る自分の姿を眺めていた。左手にはめた指輪は最近息子が買ってくれたもので、婚約指輪より大きいダイヤがついている。……これを売ったら、東京は無理でも、どこかでひとり暮らしをする初期費用にはなるのだろうか。世間知らずのわたしにはそれすらわからない。

首元のスカーフに触れる。鮮やかな緑のスカーフは、娘が働いたお金で初めてプレゼントしてくれたものだ。……あの時は、これ以上何もいらないと本気で思っていたのに。あの時よりいい服を着て、わたしはずっと強欲になってしまった。せめて娘とは良い関係でいたい。1番幸せな道を選んでほしい。その道に自分がいなくても良い、仕方がないとわかっているのに、自分の人生が無意味に思えて苦しい。


駅から車で30分かかる古い木造住宅は、誰も愛せない家族を囲ってわたしを待っていた。車のキーを抜いた瞬間、そういえば、昔は毎日のようにこの家を燃やす夢を見ていたな、と思い出す。もはや火をつける価値もない家で、このまま時間を浪費するのだと思うと、ぐぅと声が出てしばらく車を降りることができなかった。

 

おしまい

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