ゆらゆらタユタ

わたしのブログ

3代目のメル

「のどかちゃん、亡くなったんだって」
久しぶりの母からの電話は、幼馴染の死亡を伝えるものだった。まだ肌寒い3月の夜、彼女の遺体は近所の海辺で発見された。遺書はなく、事故とも自殺とも判断がつかないのだという。

 

「それで、のどかちゃんのお母さんが、あなたにお通夜に出てほしいって言ってるんだけど……」
思わず「え?」と声が出た。連絡を受けたのは木曜の午後で、葬儀は翌日に迫っていた。わたしは東京のオフィスにいた。地元の北海道までは、帰省するなら半日がかりだ。

 

「なんでわたし?」
我ながら薄情だけれど、それが正直な感想だった。のどかとの出会いは幼稚園で、中学まで同じ学校に通った。高校が離れてからもちょくちょく会ってはいたものの、わたしが東京の大学に進学してから疎遠になっていた。最後に会ったのがいつか思い出せない。年末に帰省した時に一瞬会った……のは、もう5年、いや6年前? 

 

「そんなこと、ママに言われても」

電話口の母は困ったように言う。……まぁ、そうか。通話を切らないまま、わたしはスマホのスケジュール管理アプリを開いた。明日はプレゼン、土日はデートとジムの予定が入っている。プレゼンは最悪部下に任せればいいが、ひと月ぶりの彼氏とのデートをドタキャンするのは気が進まない。結局、わたしは帰らず弔電を送ることにした。母に葬儀への代理出席を頼むと、しぶしぶながら了承してくれた。

……のどかの死は、もちろん悲しい出来事ではある。だけど涙は出なかった。わたしは電話を切った1分後にはトイレで口紅を引き直し、10分後には会議に出ていた。そのまま終電近くまで働いて、翌日プレゼンを成功させて打ち上げでビールを飲み干すくらいには、わたしは平常心だった。

土日も空港には向かわず、彼氏と肉を食い、しょうもない映画を見て、久しぶりにセックスをし、寝た。

 

北海道に帰ったのは、お盆に入ってからだった。

「そういえば、のどかちゃんの家には連絡したの?」
「あぁ……」
母に言われて、しぶしぶ実家の電話の前に立つ。日に焼けたノートの中に、のどかの家の番号がメモされている。かけながら、出てほしくないと思った。のどかのお母さんが着信履歴に気づくのは3日後で、その頃わたしは東京に帰る途中とかで、なんとか有耶無耶にならないか……そう祈っていたのだけど、3コール程度で繋がった。

 

のどかのお母さん――穂乃果さんは、相手がわたしだとわかると喜び、「ぜひのどかに会いにきて」と言った。気持ちがどっと重くなる。わたしはのどかに会いたくなかったし、……正直なところ、彼女の母親にはもっと会いたくなかった。


---

翌日の午後、仕方なくわたしはのどかの家を訪れた。うちから歩いて15分。白い外壁に囲まれた、この辺りでは1番大きな家だ。駐車場には2台の車が並んでおり、片方は派手な外車、もう片方は国産の軽だった。自分の格好を確認してから、インターホンに指を伸ばす。わたしを睨む『浜島』の表札は、威圧的なくらい立派な書体だ。

 

「茉莉花ちゃん!」
息を呑む。出迎えてくれたのは、他でもない穂乃果さんだった。会うのは10年以上ぶりだった。それなのに、彼女は驚くほど昔のままだった。明るい茶色に染めた肩までの髪を内側に巻いて、光沢のある白のブラウスにグレーのロングスカートを合わせている。上向きのまつ毛はエクステだろうか。ツヤのある肌や桃色のチークは、うちの母親と同世代とは思えない。そして、胸元に抱いた白い仔犬……。わたしは少し眩暈がした。

 

のどかの仏壇は奥の和室にあった。写真はどう見ても10年以上前に撮られたものだ。線香をあげ、お悔やみを述べて香典を渡す。

「お昼は食べたよね? よかったらお茶でも飲んでいって」
寂しげに微笑むこの人の誘いを、わたしが断れるはずがない。

 

通されたリビングは明るく、すっきりと片付いて生活の匂いがしなかった。代わりに飾られた立派な百合が香りを振りまいている。そのアールデコ調のデザインの花瓶に見覚えがある。リフォームをしたのか全体のレイアウトや家具は変わっているのに、ちょっとした所に過去の思い出がこびりついている。

 

「お砂糖はいらなかったよね?」
草花が描かれたカップとソーサーと、紅茶の香りにますます居心地が悪くなる。10代のわたしが求めたもの、やがて見向きもしなくなったもの。それが今、目の前にある。引き攣る口元を隠すように、わたしはカップに口付けた。正面で頬杖をついていた穂乃果さんの膝に、さっきまで抱かれていた仔犬が飛びのる。白のトイプードルの名前はメル。わたしがつけた。

 

「この子は3代目なの」
わたしの視線に気づいたのか、穂乃果さんがそう言いながら、犬の背中を優しく撫でる。……最初のメルは、わたしたちが12歳の頃にこの家に来た。約6年後に病気になって、必死の看護も虚しくこの世を去ったと聞いている。

 

穂乃果さんは自分のぶんの紅茶も淹れたが、手をつけず3代目のメルを撫で続けた。視線は柔らかな白い毛並みをとらえているが、意識は間違いなくわたしに向いている。これから何を言うのか、試すみたいに。

 

「この度は……本当に……」
無難な言葉で逃げようとしたけど、穂乃果さんは目を細めただけで相槌すら打たなかった。口元には薄い笑み。唇はチークと同じで可憐なピンク。

しばらく嫌な沈黙が続いた。見覚えのある壁掛け時計がチクタクチクタク、いちいちうるさい。この人は何を言わせたいんだろう。わたしは観念して頭を下げた。

 

「すみませんでした」
「……なにが?」
「その……。お葬式に、出られなくて」
「あぁ」
それは正解の端を突いたらしい。穂乃果さんは笑みを深くして、両腕をテーブルの上で組んだ。

 

「いいの。忙しかったんでしょう? お仕事、大変だって聞くし」
「すみません……」
「でも……やっぱり少し寂しかったな。茉莉花ちゃんは、ほら、家族みたいだったでしょう? ある時期まで」
ある時期。それはわたしの上京までだ。幼い頃からのどかはわたしにべったりで、わたしが他の子と仲良くなるのを嫌がった。中学までは、わたしは本当に毎日のようにこの家に遊びに来ていたのだった。夕食をご馳走になることも多かった。穂乃果さんの作る料理は、フルタイムで働いていて、家事の苦手な母のそれとはまったく別物だった。わたしにとってまさにご馳走だった。それに……。

 

「そう……ですね」
あの頃の母は余裕がなかった。合わない仕事で無理をしていたからだと思う。ちょっとしたことでヒステリックに泣き叫び、怒り狂う母が怖かった。いま考えれば、当時の母は何らかの病気だったのだろう。わたしの寂しさや不安を埋めてくれたのは、のどかのお母さん……穂乃果さんだった。

 

「ねぇ、茉莉花ちゃん」
運動会で1着を取った時、テストで100点を取った時。すごいすごいと褒めてくれるのは母ではなく、いま目の前にいる穂乃果さんだった。茉莉花ちゃんは本当にすごい、賢い、面白い、可愛い、素敵、優しい、面倒見がいい。のどかも見習ってね? あの頃、穂乃果さんと話していると、自分が特別な存在に思えた。

 

「茉莉花ちゃんは、のどかを好きだったこと、ある?」
「え、それはもちろん……」
あります、と言いかけて口を噤む。「のどかを好きだったか」ではなく「好きだったことがあるか」という質問の裏には、一度も好きじゃなかったでしょう、という確信が滲む。

わたしたちはたしかに仲は良かった。毎日一緒に登下校した。中学に入ってすぐ、わたしは別の子たちと仲良くなりかけたけど、結局のどかの元に帰ってきた。だってメルが、メルがこの家に来た。わたしがずっと飼いたくて飼いたくて、親にどんなに頼んでも手に入らなかった白いトイプードル。名前をのどかとふたりで考えて、最終的に穂乃果さんが選んだのは、わたしが提案した『メル』だった。のどかはむくれたけれど、わたしは有頂天だった。夢みたいに可愛い仔犬に名を付けられたこと、穂乃果さんが、我が子であるのどかを差し置いて、わたし……の、考えた名を選んでくれたことに。

 

……いや、今はメルじゃなくのどかの話だ。わたしは頭を切り替えて、のどかの良いところを挙げようとするけど、何ひとつ思い浮かばなくてゾッとした。悪い子ではなかった。だけど話題と語彙力に乏しく、話していても言葉が滑っていく感じがした。対して、のどかの母親である穂乃果さんは、本当に聞き上手だった。誰にも言えないことも、穂乃果さんの前なら素直に吐き出せた。でも穂乃果さんとわたしは友達ではない。彼女の娘の友達という糸だけで繋がっていることは、当時から理解していたつもりだ。あの頃、穂乃果さんは「いつでも遊びに来て」と言ったが、「のどかがいない時でもいい」とは決して言わなかった。だからわたしは……。

 

わたしが何も言えずにいると、穂乃果さんは白けたような笑みを浮かべて、膝の仔犬を床に下ろした。冷めた紅茶を一気に飲み干し、やや乱暴にソーサーに置く。陶器のぶつかる嫌な音。わたしが憧れた穂乃果さんのイメージとはかけ離れている。

 

「別に、ずっとのどかのそばにいてほしいだなんて思ってなかった。ただ、私たちを利用するだけ利用して、自分が楽になったらおしまいなんて、さすがに薄情だと思わない?」
中学で勉強が面白くなったわたしは、地元で1番の進学校に進んだ。のどかとはずっと一緒にいたから、離れる不安がないわけではなかった。けれど、いつも教室の隅でのどかと「わたしたち、陰キャのコミュ障だよね?」と言い合っていたわたしは、驚くほどあっさりと新しい環境に馴染んでいった。さらにその頃、母が仕事を辞めた。ストレスから開放された母は、人が変わったみたいに穏やかになった。わたしは新しい友達や家族、部活や勉強で満たされていた。のどかに会えば「学校がつらい、やめたい」「茉莉花ちゃんはズルい」と愚痴を聞かされるので、メルや穂乃果さんに会いたい気持ちはあっても、次第に足は遠のいた。

 

東京の大学を受けると伝えた日、のどかは泣いた。高3の夏だったと思う。それから関係はぎくしゃくした。決定打になったのは、わたしの受験当日の朝に、メルが死んだとのどかが連絡してきたことだった。後から知ったが、初代のメルが亡くなったのは年末だったらしい。のどかはそれをわたしに隠して、受験に合わせて報せてきたのだ。「その日が試験だなんて知らなかった」とのどかは言っていたけれど、信じるのは難しかった。

わたしが東京に引っ越す日、呼んでもないのにのどかは仔犬を抱いて見送りに来た。真っ白でふわふわで、一見そっくりではあるが、決してメルではない仔犬を、のどかはメルと呼んだ。

「メルと一緒に待ってるね?」
のどかはそう言ったけれど、わたしを知らない無垢な仔犬の目を見ると、胸がひしゃげる思いがした。その犬はメルでない、という言葉はなんとか飲み込んだ。

 

「……おしまいとかじゃないですけど、やっぱり東京は遠くて」
「距離が原因? 違うよね」
「でも……わたし……」
「避けてたでしょう! のどかのこと!」
穂乃果さんが語気を荒げて、わたしは思わず息を呑む。ふたりの間に漂う最悪の空気。かつてわたしと穂乃果さんを繋いでいた糸が、有刺鉄線になってお互いを縛っているみたいだった。またしても短くはない沈黙があった。

 

「いや、……もういいわ。ごめんなさい」
穂乃果さんはそう言って、大きく息を吐いてから、両手で顔を覆ってうつむいた。ダイヤのリングをつけ、ピンクのネイルを施した手。その節や皺の多さに、初めて時の流れを感じた。無言の数分間が過ぎ、顔を上げた穂乃果さんの目の下は黒くマスカラが滲んでいた。

 

玄関まで送り出されて、最後にもう一度頭を下げた時、穂乃果さんに両手を掴まれた。顔が近づき、わたしの体はこわばった。全然変わっていないと思っていたのに、間近で目が合った穂乃果さんの顔には、細かなシワが散らばっていた。残酷なくらいの時間と悲しみの跡。線香の匂い。染められた白髪特有のきらめき。

 

「私……あなたのこと、子供の頃から好きじゃなかった! のどかの友達じゃなかったら、優しくなんかしなかったから!」


---

それからの数時間の記憶がない。気づいたらわたしは実家の自分の部屋で寝ていた。仕事を言い訳に予定を早め、わたしは翌日の飛行機で東京に帰った。

 

しばらくして、母から「のどかちゃんのお母さんに、あなたの住所教えておいた」という呑気な連絡があった。おかげで落ち着かない日々を過ごしたが、届いたのは香典返しと短い手紙だった。手紙の内容は、あの日の謝罪が主だった。

 

「せっかく会いにきてくれたのに、傷つけるようなことを言ってごめんなさい」
「念の為にお伝えしておきますが、今回ののどかの件は、もちろん茉莉花ちゃんとは無関係です」
「もう二度と会うことはないでしょう。お元気で」

 

わたしはもう吸わないと決めた煙草を咥え、捨てる予定の灰皿とライターを持ってベランダに出た。灰皿の上に手紙を置いて火をつける。ゆっくりと形と意味を失ってゆく紙を見つめながら、未だのどかのために泣けていない自分の薄情さに、わたしはうんざりしていた。

 

『おばさん、茉莉花ちゃんのことも本当の娘と思っているから』
ふと子供の頃の思い出が頭に浮かんだ。些細なことで家を追い出されたわたしを迎え入れ、手を握ってくれた穂乃果さん。出された紅茶の香りまでが蘇ってくるようだった。あの優しい嘘をつかせたのは、わたしか、それとものどかだろうか。

 

「……のどかに決まってるか」
自嘲する。穂乃果さんの優しさは、すべてはのどかのためだった。わたしに向けたすべての言葉は、のどかを守るために紡がれていた。穂乃果さんはわたしを責めたが、利用していたのは穂乃果さんも同じだ。知らずに浮かれていたわたしは、なんて愚かなんだろう。

 

……本当に悲しいのは、幼馴染ののどか、かつて強烈に惹かれた穂乃果さんでさえ、わたしには過去でしかないことだった。わたしは明日も普通に働き、お笑い芸人のYouTubeで笑い、肌や爪の手入れをして7時間眠るのだ。誰にもわたしの日常を壊す力はなく、その力を他人に渡せないことが少し虚しい。思えば、強烈に心が揺れたのは、大学受験の日が最後かもしれない。わたしはせめて、眼を閉じて3代目のメルの幸せを祈った。

 

おしまい


関連する話

うつ病になって実家に身を寄せたら、それまで折り合いの悪かったお母さんが超優しくて、沼にハマっていく女の子の話↓

 www.yoshirai.com

男尊女卑の家に産まれ、大学進学を拒否する父親を、お母さんが説得してくれたんだけど……という話↓

www.yoshirai.com

母親とその姉の代理戦争に巻き込まれた姉妹のお話↓

www.yoshirai.com

その他母娘系↓

www.yoshirai.com