高校時代を思い出す時、まず頭に浮かぶのは教室ではなく通学電車だ。通学の30分間で、数えきれないほど痴漢に遭った。ある時は大学生風の男に密着され、ある時は父親よりも年上と思われる数人の男に取り囲まれた。初めて下着に手を入れられた日、教室についた瞬間……いや、正しくは友達の顔を見た途端に涙が止まらなくなった。心配した友人たちはわたしを保健室に連れて行き、放課後には先生を交えた相談の時間を設けてくれた。
「あなた、大人しそうに見えるからねぇ……」
担任だった50代の女性教師は困ったように頬に手を当てた。先生から受けたアドバイスは、時間や車両を頻繁に変えるという、わたしでも思いつくものだった。
「親御さんに付き添ってもらうのはどう？」
母が専業なのを知っていたから出た言葉だと思う。だけどそれこそ絶対に無理だった。娘が毎日痴漢に遭っているなんて知ったら、母はどんなに傷つくか。心配性な母は、毎日のように「困っていることはないか」「何か怖い目にあっていないか」とわたしに尋ねる。日々積み重ねた「大丈夫」を嘘だと告げるのはあまりに酷だ。
「……要するにさ、ナメられてるってことなんじゃん？」
そう言ったのは和美だった。路線は違うが、同じような距離を通学してきているのに、和美はほとんど痴漢に遭っていないと言う。わたしたちの通っていた高校は校則がゆるく、勉強さえ手を抜かなければメイクの類も黙認されていた。当時の和美はほとんど金に近い茶髪で、スカートも短かった。
「こいつは騒ぐぞ、黙ってねぇぞ、ってのを見た目で示せばいいんだよ」
その週の日曜日、和美の家に泊まりに行った。翌朝、和美の手によりメイクを施され、スカートを短く折ったわたしは別人のようだった。「なるべく気が強く見えるように」とアイラインを濃く引いてもらった目元が力強い。猫背になるな、違和感を感じたらすぐ睨め、などと姿勢と態度を指導され、ついでにガムを噛みながら駅に向かう。いつでも発信できる状態にした携帯を握りしめ、わたしは満員電車に乗り込んだ。和美は隣の車両にいて、連絡があればすぐに来てくれるという。けれど、学校の最寄りの駅に着くまで、わたしの指が発信ボタンを押すことはなかった。
「大丈夫だった？」
「うん。……本当に、大丈夫だった」
露出が増えたにも関わらず、被害を受けずに済んだことに驚いた。普段のわたしはパンフレットに載ってもいいくらい、きちんと制服を着ていた。大人が決めた制服を、大人が決めた通りに着ていたのに、制服はわたしを守ってくれなかったのだ。
その日はそのまま授業を受け、地元の駅についてから、メイク落としシートで化粧を落とした。折ったスカートを元に戻して、母が驚かないようにいつも通りの格好で自宅に戻った。
火曜日の朝、メイクを再現しようにも、わたしには道具も知識もなかった。仕方なく、いつもの野暮ったい格好で通学し、普通に痴漢されて学校に着いた。
その日は日直で、クラスの男子と残って雑用をしなくてはならなかった。日誌を書いている時、普段は教室の隅で漫画を読んでいる彼が、じっとわたしを見つめているのに気がついた。怪訝に思って顔を上げると、彼はぎこちない笑みを作ってこう言った。
「やっぱり島本は……普段のほうがいいと思う。昨日の、なんか、ケバい化粧より」
彼が恐る恐る伸ばした手がわたしの頭に触れ、離れる。ゾッとした。わたしはそれまでほとんど話したことがなかったけれど、普段の彼は大人しく、和美をはじめクラスの女子のほとんどに敬語を使っている。和美の言った「ナメられてる」という言葉が浮かんだ。……お前が、お前がどう思うかなんて一切まったく関係ない。昨日のメイクは自分を守るための武装だった。その武装を解いたとたん、お前のような男から頭をポンポン撫でられるなんて、昨日の方がマシだったことの何よりの証明じゃないか。
少ない小遣いでメイク道具を買い、わたしは毎日化粧して通学するようになった。
最初に和美にしてもらったメイクは、濃くてもなんとなくまとまりがあってファッションとして成立していた。あれは彼女の技術やメイクへの愛の賜物だったのだと思う。どちらもないわたしのメイクは雑で稚拙だった。とにかく目の周りを黒く塗り、唇になんらかの色をのせ、短いスカートにシャツのボタンを開けて通学した。学校につくと和美がぎょっとしてメイクを直してくれることもあったから、本当に下手くそだったのだろう。日直の彼は目も合わせてこなくなった。
もちろんメイクをしていれば、まったく痴漢に遭わないということもない。でも確実に頻度は下がり、触り方にも妙な遠慮のようなものが見えた。少なくとも、いきなりスカートの中を撫で回されるようなことはなかった。
あの時のわたしは、ノーメイクでの通学は、痴漢や頭ポンポンを許すことと同じと考えていた。現代でこそ、化粧は自分を美しく見せるものだけれど、かつては魔除けの意味もあったという。わたしが欲していた効果は、完全に後者の方だった。
ある日の午後、体調が優れずわたしは学校を早退した。学校から駅までの道中で、知らない男に声をかけられた。
「ねぇお姉さん、サボり？」
うすら寒い笑みを貼り付けた男は、勝手にわたしと並んで歩き始めた。
「可愛いね。3万でどう？」
3万の意味を理解した時、おぞましさに身震いした。白昼堂々、女子高生に売春をもちかける男がまともなわけはない。まともでない男につきまとわれている。男と目を合わせないよう、わたしは早足で歩き続けたが、男はずっと着いてきた。このまま同じ電車に乗ってきたらどうしよう。家も知られてしまうかもしれない。
「もう1万、上乗せするからさ……」
男に手首を掴まれて、わたしは咄嗟に振り払った。そのまま駅前の交番を目指して走った。男が「おい！」と怒鳴るのが聞こえた。
半泣きになりながら飛び込んだ交番では、初老の警察官が対応してくれた。話は聞いてもらえたものの、「まぁ、君も軽く見られるような格好はしない方がいい」と言われ、わたしの心は簡単に折れた。大人しく見えればナメられ、派手に見せれば被害に遭っても仕方がないと思われるらしい。話の途中で耐えられなくなり交番を出た。
駅のトイレでメイクと涙が混ざったものをクレンジングシートで拭き取って、化粧道具をゴミ箱にぶちこんだ。どちらにせよ救われないのなら、何もかも無意味だ。
地味な装いに戻ったわたしは、相変わらず痴漢の被害に遭い、たまにつきまとわれもした。それでももう、メイクをしようとは思わなかった。わたしは武装して身を守るより、完璧な被害者になるのを選んだのである。あまりに弱い。そしてみじめだ。そんな自分に嫌気がさした。
塾に通い始めたのは1年生の冬だった。空気の凍るような2月の日、自転車置き場でわたしを呼び止めたのは、他校の男子生徒だった。塾のクラスは同じだが、やはりほとんど話したことはない。彼は付き合ってほしいと言ってきた。
「どうしてですか」
週に数回、同じ教室で授業やテストを受けるだけで、どうして付き合いたいなんて思うのか。わたしはそういう意味で尋ねたのだけど、彼の回答はズレたものだった。
「なんか……守ってあげたいって思うんだ」
何から？ と口にしかけて「あ」と思った。そうか、そういう手があった。わたしは交際を受ける代わりに条件を出した。毎朝、学校まで送ってもらうことだ。痴漢の話をすると、彼は「許せない」と憤り、毎朝の通学の同伴を引き受けてくれた。
幸い彼とわたしの学校は路線が同じで、駅もふたつしか離れていない。彼とは毎朝、電車のホームで待ち合わせした。同じ車両に乗り込んで、彼はわたしの学校の最寄りで一度降り、逆方向の電車に乗り換え自分の学校に向かう。そういうことを卒業まで繰り返してくれた。背が高く体格の良い彼の隣は安心感があり、少しでも違和感を覚えれば、わたしは彼の制服の袖を引いた。彼が睨むと、以前わたしの腰に股間を押し付け続けた男は顔を強張らせて身を引いた。わたしの涙や、振り絞った「やめてください」も無視した男が、だ。それは新しい絶望だった。
「ねぇ……いい？」
彼とキスしたのは付き合い始めて2ヶ月後、セックスを迫られたのは半年後だった。しばらくのらりくらりとかわしたが、「やらせてくれないなら別れる」と言われて承諾せざるを得なくなった。わたしはセックスで安全を買ったのだ。裸の彼の下で天井を見ながら、これはあの時、わたしの手首を掴んだ男に持ちかけられた売春と、何が違うのか考えていた。この痛みは罰だと思った。
高校卒業後、彼が関西の大学に進んだことでわたしたちの関係は終わった。わたしは自宅から自転車で通える女子大を進路に選んだ。
「お前、俺のこと一瞬も好きじゃなかっただろ」
かつてわたしを可憐ちゃんと呼び、守りたいとはにかんだ彼は、憎々しげに吐き捨てた。別れ話を持ちかけたは彼の方なのに、わたしが縋りつかないことがたいそう不満なようだった。
「利用するだけ利用して終わりなんだな」
あなたもでは？ と言いかけてやめた。たしかにわたしは彼を利用したけれど、その対価は与えたじゃないか。友達より先にセックスしたかったんでしょう。あいつとやったって自慢したんでしょう？ あなたの友達からの下卑た視線に、わたしはちゃんと耐えたじゃないか。……そう言ってやりたい気持ちはあるが、彼が本当に傷ついているのもわかったから、ただ「ごめんなさい」とだけ言った。
彼と別れた日の夜、わたしは『誰かの女』というラベルを失ったことに涙した。わたしはきっと、この先も男性を好きになることはない。でもたぶん、この先もまたラベルを求めるんだろう。傷付かず、誰も傷つけずに生きたいだけなのに、どうしてわたしの心と体を守るのに、男性の名前が必要なんだろう。
若い頃、同じような悩みに苦しんできた母は、結婚して本当に楽になったという。だからだからわたしにも結婚を勧めるけれど、剥がせないラベルにはまた別の恐怖がある。わたしがなりたいのは人妻ではなく、誰かの性的対象や支配欲の的にならないただの人間なのだけど、それは一生叶わない気がして、今も毎日律儀に絶望している。
おしまい
関連する話
このお話の主人公がお母さんに結婚相談所を勧められる話↓
こちらも同じ主人公。バイト先の後輩に「次付き合う人の人生、めちゃくちゃにしたい」宣言します↓
こちらは別の主人公。興味のない異性（ただし滅茶苦茶いい先輩）から頭ポンポンされる苦しみ↓
