バイトを終えての帰り道、自宅アパートが見えるところまできてハッとした。部屋の灯りがついている。はやる気持ちを抑えて階段を上り、玄関ドアの前で息を整える。バッグの内ポケットから取り出した鍵を、鍵穴に差し込む前にノブに手をかけてみる。案の定、鍵はかかっていなかった。エナメルのベージュのハイヒールが、たたきの真ん中に揃えられていた。わたしは履いていたローファーを脱ぎ捨てて居間に向かう。
戸を開けると母がいた。ちゃぶ台の前の座布団の上に居心地悪そうに座っている。鎖骨まである茶色の髪をしっかり巻いて、ツイードのスカートを履いた母は、ひと昔前の女子大生みたいな格好をしている。きっと今の男の趣味なんだろう。
「おかえり」
「あ……うん、ママもね。いつ帰ったの?」
「1時間くらい前かな。今日バイトだった?」
「うん」
「うどん屋さん、遅くまでやってるんだね」
「今のバイトはファミレスだよ」
うどん屋が潰れたのは1年以上も前だった。ファミレスのバイトを始める時も、この人は同意書にサインをしたはずなんだけど。
「……そうなんだ。おつかれさま」
「今日はどうしたの?」
口に出してから「まちがえた」と思う。ここは母の家なのだから、帰ってくるのは当然だ。母に背を向け、脱いだブレザーをハンガーにかけている間に、口角を上げて笑顔を作る。
「もちろん、理由なんかなくていいんだけどね。久しぶりだからびっくりした」
「連絡すればよかったね」
「ううん、平気だよ。3ヶ月ぶりだね」
「そんなに経つかな」
「経ったよ」
本当は、4ヶ月と3日経つ。
「……のど乾いてない? お茶淹れようか」
母の返事を聞く前にわたしは台所に立った。備え付けの戸棚には、母の好きな紅茶の缶があるはずだった。
「あれ」
そう声に出してすぐ気付く。少し前に友達が遊びに来た時に、茶葉を使い切ってしまったのだ。……母が今日帰るって知ってたら、ちゃんと買っておいたのに。仕方なくペットボトルの緑茶をグラスに注いで出すことにした。
「どうぞ」
「ありがとう」
「……」
「……」
気まずい沈黙に耐えかねて、わたしは尋ねた。
「……ご飯もう食べた? カレー冷凍してあるけど」
「あのね、彼氏ができました」
わたしの言葉を遮るみたいに、母は言った。今言わなければ機会を失うとばかりの、強引な差し込みだった。わたしを産んだその人は、正座した自分の膝の上で両手を握りしめている。
「……うん」
「それで、その……今までごめんね」
「いいってば。好きな人がいるのはいつものことでしょ」
わたしは精一杯、理解のある娘の顔をした。母は恋愛体質だ。恋愛が楽しくて、男が大好きで仕方ないタイプとは違い、恋愛に振り回されてボロボロになっても男に縋り付いてしまう……そういう人だった。
「そうなんだけど、今回は……」
「……なに?」
「あのね、その人と住もうと思って」
「え、どういうこと?」
思わず声が硬くなる。母は叱られる子供のように身を小さくして、自分の拳を見つめていた。嫌な予感がした。
「だから、その人と暮らしたくって」
「同じ意味だよ」
「そうだね、あの……だから……」
「部屋なんてない」
「え?」
「この狭い家、ふたり暮らしで精一杯じゃない。もうひとり増えるなんて絶対無理。その人どこで寝るの? リビング?」
頭に浮かんだ可能性を、打ち消すみたいにわたしはまくし立てた。困惑と少しの恐れの混ざった母の顔から、少しでも目を背けたかった。
「麻衣ちゃん……」
「収納だってパンパンでしょ。これ以上家具も荷物も置けないよ。絶対無理。無理だから」
「だから、その……ママが出てくから」
「は?」
本当は「は?」とは思っていなかった。頭に浮かんだのは「やっぱり」だ。わたしが言葉を続けるより先に、口を開いたのは母だった。
「その人のお家、隣の県だけど、ここから車で1時間くらいでね」
「そこに住むの?」
「そうしたいと思ってる」
「なに考えてるの? わたしの学校は? 今から高校を変えるのは絶対嫌。来年受験なんだよ?」
言いながら、いやいやなに言ってんの、「ママが出てく」って言ってるのに、連れてってもらえる前提で喋んの痛すぎ、恋人との同棲に高校生の娘なんて邪魔に決まってんじゃん、この人そういう人じゃんか。と思った。
「わかってる、わかってる……だからね」
「なに……」
「……ごめんなさい……」
「なにが?」
「……」
「泣くのはズルいよ。ちゃんと言葉にしてよ」
「麻衣ちゃんは、ここに住んでください」
自分で言わせたくせに律儀に傷ついた。
「わたしひとりで? たしかにここ最近ずっと、ママは帰ってこなかったけど。本格的に見捨てるんだ。娘より男を選ぶってこと?」
「ごめんなさい」
せめて「見捨てる」のは部分は否定しろ。今まで溜まった不安や寂しさに火がついて、爆発的な怒りに変わった。この人が家を空けていたのは4ヶ月と3日。最後に会ったのは2ヶ月前で、予備校の入学書類に印鑑をもらった時だった。待ち合わせは駅の中にあるスタバで、20分後に逃げるみたいに帰っていった。
「どうしてそう無責任なの?」
喉の奥から哀れで掠れた声が出た。
「やっと帰ってきたと思ったらそれ? 本当に何考えてるの」
「家賃、家賃はちゃんと振り込むから……ママの荷物がなくなれば、部屋だって少しは広くなるでしょう? 勉強だってはかどるし」
「はぁ?」
哀れなのは母も一緒だった。高校生の娘に向かって必死に言い訳をして、通用しないってわかってるのに媚びた笑顔まで貼り付けている。わたしが目をそらさずにいると、少しずつ笑顔は萎んでいった。
「……ママなんていない方がマシなの。ママはだらしなくて、いつも麻衣ちゃんに迷惑かけてばっかりでしょ。麻衣ちゃんはしっかりしてるから、ひとりでも大丈夫だと思うの。ね?」
「男がそう言ったの?」
「え……」
「相手の男がそう言ったわけ? 娘は邪魔だから置いてこいって?」
頭が熱くなっているのに、芯の部分は冷えている。あぁ、またわたしは願望を口にしている。ママはわたしと暮らしたいのに、男に断固拒否され泣く泣く娘と離れて暮らすことにしました。そういう都合の良いフィクション。
「そんな男と付き合うのやめてよ」
「ちがうよ、そんな人じゃない」
「……じゃあ……」
「あのね……実はその人は、娘さんも一緒においでって言ってくれてて……」
「……なにそれ」
恋人けっこういいヤツでウケる。同時に最後の望みを打ち砕かれて、わたしはちょっと笑ってしまった。
「つまりひとりで出て行こうとしたのは、相手じゃなくてママの意志なんだ」
「だって、麻衣ちゃん転校も嫌なんだよね? 今までだって、ほとんどひとり暮らしだったんだから……これが1番いいと思って」
「色ボケしちゃって最低だね。どうしていつもそうなの? 昔からすぐに男に夢中になって、わたしのことはそっちのけなくせに、フラれたら都合よく戻ってきて……」
「……ごめんね……」
「男好きなのはもういいよ。でも普通、子供が生まれたら子供を優先しない?」
「ごめんなさい……」
「どこの親もそうしてるじゃん。そんなことがどうして出来ないの? 出来ないのになんで産んだんだよ!」
ついに涙がこぼれてしまった。あと1年と少し経って、受験に失敗しなければ、わたしは大学生になる。せめてそこまで待ってくれれば、それ以上は何も期待しなかった。
「……だって、妊娠した時は嬉しかったんだもん。これであの人……麻衣ちゃんのパパと家族になれると思ったんだもん」
頭がくらくらした。涙声で言い訳をする母の口調は少女のように甘くて幼い。高校のクラスメイトの方が、よっぽど大人びた話し方をする。……昔はこんな風じゃなかった。いつから? 誰がこの人を変えてしまったの? パパ? 離婚後の恋人たち? ……わたし?
「結局妊娠も、男を引き止めるきっかけ程度のものだったんだね」
「ちがうもん……」
「どこがちがうの。説明してよ」
「ママは麻衣ちゃんとはちがうんだよ」
「は?」
黄色のタオルハンカチで顔を覆った母は、ついに肩を震わせて泣き出した。
「麻衣ちゃんは賢い。きっとパパに似たからだね。ママはバカなのに頭の良い人が好きで、パパと付き合えたけど、いつも捨てられないか不安だったの。弁護士だったパパの周りには、ママよりずっと賢い女性がいくらでもいたんだもん」
絶句した。確かに父は弁護士だったが、両親の出会いは大学の法学部だ。司法試験にこそ合格できなかったけれど、母だって結婚前までは法律事務所でパラリーガルとして働いていたのだ。今だってとある会社の法務部で知識を生かした仕事をしている。この人は決してバカじゃない。「バカだから」で逃げる小賢しさが何よりの証拠だ。
「麻衣ちゃんは賢くて正しい。子供の頃からママのことバカにしてたよね」
「してないよ……」
「してたよ。わかるもん。パパの同僚たちもそうだった。感じがよくて、見下したりもしないっていうか、本人もそんな気ないんだけど、でも確実にある瞬間から『あぁもういいです。言ってもわかんないですもんね?』って哀れみのこもった笑顔を浮かべて、優しく手を差し伸べてくる。麻衣ちゃんもそうだったよね? 本当に聞き分けが良くていい子だった」
「わたしは……」
「わかってる、ママが全部わるいんだよ。家事もダメだし、振込や行事の日時を忘れてしまって、何度も麻衣ちゃんに迷惑かけたよね。なんでだろう。勉強は苦手じゃなかったのに、仕事だってちゃんとできるのに、育児は頑張ってもダメだった。ううん、なんか頑張ろうとしても頑張れない。麻衣ちゃんの呆れた顔を見るのも辛かった。そういう時に男の人に優しくされると、なんか、こう……つい流されちゃうの」
「ねぇ、その男の人たちって……」
「わかってるよ!」
再びわたしの言葉を遮って、母は半ば叫ぶみたいに言った。
「その人たちが何が目的で、責任がないから優しくできるのもわかってる。でも、その責任のない優しさでしか満たされないものがあったんだもん。無責任な関係だから癒やされたの。麻衣ちゃんとママの関係には、どうしても責任がのしかかるでしょ」
「なにそれ。親子ってそういうものじゃないの?」
親が子に対して責任を持つのは当然だ。……そうだよね? 真っ当なことを言っているつもりなのに声が震えた。頭に浮かぶ限り、周りの友達のお母さんは、ちゃんと“母親”をやっている。母親個人に趣味や付き合いはあっても、子供のために時間や心を使っているように見える。そんなお母さんを口うるさく思いつつも、ちゃんと守られて子供も“子供”をやっている。責任があるのはうちと変わらないはずなのに、責任以上の結びつき――例えば愛情とか――でつながっている感じがする。その意味では、わたしたちは親にも子にもなれていない。責任に勝る愛がなかった、それだけの話? ……そういう息苦しさから逃げる先が、この人には男しかなかったのかな。ママはわたしから逃げるために、男の人の手を取ったのかな。
「麻衣ちゃんを産んだ時、ママはまだ若かった。どうして若い女の子が、会ったこともない自分の子供に生涯を捧げるなんて誓えるの? そうじゃなきゃ産んじゃだめだった? ママには無理だったよ。ごめんなさい」
何を勝手なことをと思うのに、適切な言葉が見つからない。生涯を捧げてほしいなんて思ってないけど、なんかこう、母性とかそういうものがあるんじゃないの。いや……そんなスーパーパワーがすべての女に宿るだなんて、それこそ夢みたいな話か? わたしが口を閉ざしていると、また沈黙が降りてきた。
「ママだって、パパとうまくいってたら、きっともう少し良いお母さんやれてたよ。それか……」
「なに」
ふいに言葉が途切れたので、思わず続きを促してしまう。
「麻衣ちゃんがママと同じくらい、バカだったら良かったのにな」
それは最悪のひと言で、わたしの心を完璧に折った。
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「ごめんね」
「うん」
「本当にごめん」
「もういい」
「今まで通りお金は振込むし、学費もパパの援助があるから心配しないで」
「うん」
「あっくん……あの、一緒に住む彼も、何かあれば協力してくれるって言ってるから」
「そう。ありがとう」
「麻衣ちゃん」
「いいママじゃなくてごめんね。麻衣ちゃんのこと、好きなんだけど……」
「うん。わかった」
母は泊まらず帰っていった。終電にはまだ時間があった。冬物のコートを持っていくと言うので、家にある大きな紙袋をあげた。残りの荷物は後日、恋人と一緒に取りにくるという。
「わたしがいない間にしてね」と言うと、母は少し傷ついた顔で「わかったよ」と返事した。「じゃあね」と立ち上がる母を見送る気にもならなかった。鍵を閉める音。ハイヒールが廊下を渡り、階段を下っていく足音。静けさが帰ってきた部屋で、しばらく壁を見つめていた。気づくと日付が変わっていた。母の香水の匂いを追い出したくて、わたしは窓を全開にした。お風呂に入らなきゃ。その前に、今日は郵便受けを確認していない。わたしはサンダルを履いて外に出た。わざと弾むような足取りで、子供みたいにリズムをつけながら、わたしはボロいアパートの階段を降りていく。なんでもない。なんでもない。これまでと同じひとりの暮らし。それが今日も明日もずっと続いていくだけじゃないか。
アパートの住人は、ひと部屋を除いて郵便受けに名前を出していない。わたしの住む205号室も表札部分は空白だ。ロックを外して郵便受けを開けると、いくつかのチラシと封筒の上にキーホルダーのついた鍵があった。細かい傷がたくさんついたキティちゃんのマスコットを、わたしが見違えるはずもない。遠い昔に家族で行ったピューロランドのお土産だった。
黄ばんだキティちゃんを握りしめ、わたしはその場にうずくまってしばらく立ち上がれなかった。
おしまい
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