目が覚めると11時だった。あくびをしながら体を起こし、洗面所に向かう。冷たい水で顔を洗って、タオルで拭いてから保湿用のジェルを手に取った。ブルーの容器に入ったそれは、あまりに身なりに無頓着なわたしを見かねた母が買ってきたものだ。裏面には「忙しい朝に!5つの機能がこれひとつ」とプリントされている。5つの機能の内訳は、化粧水と美容液とパックとクリームと日焼け止め、らしい。みんな本当に、朝からそんなに色々使っているんだろうか。
肌の上で雑にジェルを塗り広げ、ブラシで髪を軽くとかす。眼鏡をかけて鏡を見ると、そこには昨日とまったく同じ、美しい顔のわたしがいた。美しさに価値を見出せず、使いこなせもしない愚鈍なわたしが。
リビングには朝食の残り香はなく、母がソファでテレビを見ていた。結婚してから30年間以上、ほぼ専業主婦として生きてきた母は、本当にまめな人である。家の中はくつろぎの余地を残して常にすっきりと片付いており、食卓に花が絶えることはない。明るいイエローのカーテンや白を基調としたインテリアは母の趣味だ。いつ人が来ても困らないけれど、うちにお客は滅多に来ない。
「おはよう。何か食べる?」
昼まで寝ていた娘に小言を言うでもなく、母はわたしに微笑みかけた。襟元のややよれたTシャツとデニム姿のわたしに比べて、シワのない水色のシャツとベージュのロングスカートを着た母は、なんというか、ちゃんとしている。口紅の控えめなピンクが肌の白さを引き立てていた。
今でこそ顔と体に脂肪をたくわえて普通のおばさんになった母だが、わたしが子供の頃はどこに行っても『1番綺麗なお母さん』だった。大学時代は周りに推されて出たミスコンでグランプリを取り、複数の芸能事務所からスカウトを受けたという。若い頃の写真を見ると、驚くほどにわたしと似ている。顔だけでなく、生まれ持った美貌を上手く使えないところまで、わたしと母はそっくりだった。
「ご飯はいらない。今日はバイトの前に和美とお昼を食べる予定」
「そう。いつもの喫茶店? 何時?」
「うん。12時に待ち合わせ」
「じゃあコーヒーだけでも飲んでいって」
母が立ち上がり、わたしのためにたった一杯のコーヒーを淹れる。別に飲みたくはなかったけれど、わたしはおとなしくテーブルについた。電気ケトルでお湯が沸く音。コーヒーの香り。開け放たれた窓のレースのカーテンが揺れ、小鳥の鳴き声が聞こえた。本日も我が家は平和そのもの……と感じたのも束の間、テレビは関西で起きたストーカー殺人事件を報じ始めた。犯人は元交際相手らしい。被害者はわたしと同い年だった。
「嫌な事件」
コーヒーを運んできた母が顔をしかめた。向かいの席に腰を下ろし、「可憐ちゃんは大丈夫?」と心配そうにわたしの顔を覗き込む。母の脳裏には、過去に自分や娘が受けた様々な被害が浮かんでいるに違いなかった。
「大丈夫だよ」とだけ答えてわたしはコーヒーに口をつける。母が毎月、片道1時間かけて目黒のカフェまで買いに行っているコーヒー豆は、両親は絶賛するけれどわたしにはよくわからない。乾いた胃に落ちる炭の味。
「そう……」
母の目が「ほんとうに?」と訴えている。わたしは無視して苦味を舌で転がし続けた。余談だが、わたしが中学生の頃、母は近くのスーパーでパートを始めた。退職したのは4ヶ月後だ。原因は店長からのストーキングで、裁判沙汰にまでなった。それ以来、我が家は食品や日用品の買い物にもネットスーパーを使っている。
「……ねぇ、可憐ちゃん」
テレビの電源を切った母がわたしに向き直る。空気を変えようとしているのか、妙に明るい声だった。けれどテーブルの上で組んだり離したりする指が、そわそわした気持ちを表している。パートを辞めてから、母はマニキュアを欠かさなくなった。短く整えられた爪はいつも綺麗に塗られている。今日は深いグリーンだ。肌に馴染む色でないので、今週は父が帰ってこないのだとわかる。
「……今、お付き合いしている人はいる?」
嫌な予感がした。もう家を出ようかと思ったが、待ち合わせ場所と時間はすでに伝えてしまっている。喫茶店はうちから徒歩5分だ。壁掛け時計に目をやって、わたしは心の中で舌打ちをした。
「いないけど」
返答を半ば予想していたようで、母の瞳に覚悟が浮かんだ。棚からファイルを抜き出して、数枚の紙をテーブルに並べた。どれも結婚相談所のチラシだった。見つめ合う男女やウェディングドレス姿の女性、所長らしき自信に満ちた中年女性……結婚というひとつのゴールに向かわせるにも、様々な圧のかけ方があるらしい。
「なに……」
「ママの頃とは時代が違うのはわかってる。でも可憐ちゃんも今年で30歳になるし、早すぎるってことはないでしょう。可憐ちゃんを守ってくれる人がいてくれたら、ママたちはすごく安心なの。登録だけでもしてみない?」
何度もシュミレーションしたのだろう。母の口からはなめらかに言葉が滑り出る。『運命の出会い』『身元証明&収入証明書の提出で安心」『理想の相手』『成婚率80%』『幸福な人生を共に』『入会金20万円』――チラシに並んだ文字を見るだけで、ロマンチックさと現実が入り混じって具合が悪くなる。
「いや、いいです。こういうのは」
「わかる、可憐ちゃんが嫌がるのはわかるの」
腰を浮かしかけたわたしの腕に手を置いて、母はわたしの逃避を阻止した。時刻は11時30分。
「結婚……男の人に夢を見られないのはわかるんだけど、ママは結婚して、すごく楽になったのね。だからママは、そういう可憐ちゃんにこそ結婚してほしいと思うの」
母の表情は切実だった。母が結婚したのは22歳。大学を出て半年も経たないうちだった。相手、つまりわたしの父親は7歳年上の警察官だ。出会いは親戚の紹介だそうだ。
顔は似ているが、母はわたしより優しく気が小さい。独身時代は男性に色目を使ったなんて思われないよう心を砕き、愛想は良すぎず、でも生意気に見えないように注意しながら生活していた。ひっきりなしの誘いを角を立てず、かつ思わせぶりに見えないように断ることにも疲れていた。そしてそんな悩みを人に話せば、まず間違いなく自慢と取られる環境だった。
……これらは今から10年ほど前、珍しく家で深酒をした母が語ったことだ。あの時、酔って机に突っ伏した母の耳は真珠のイヤリングで飾られていた。パートを辞めてほとんど外に出なくなってから、母はむしろ以前より小綺麗に装うようになった。ずっとわからなかった理由を、その時初めて理解した。母はたぶん、本当は着飾ることだって好きなのだ。けれど、何かあれば自分を美しく見せたことさえ、母の“落ち度”になってしまう。現在の母の日常は、ほぼ家の中で完結する。築30年のマンションは、母にとって職場で城で舞台である。観客がいない代わりに、お洒落をしても色目だ落ち度だと、クソみたいな矢の飛んでこない安全地帯。
「わたしはいいや」
母の気持ちが分かるぶん、強くは拒絶できなかった。チラシをまとめて母に返す。ほとんどの家事は母任せ、実家住みで29歳のわたしの手の爪は、グリーンに塗られるどころか乾燥して白くなっている。
「どうして」
「今は気分じゃない」
「可憐ちゃん……」
わたしは、不特定多数の男から湿った期待を押し付けられるのはまっぴらだったけど、ひとりの男、赤の他人、コントロール不能な第三者と添い遂げるのはもっと無理だった。男女の間で発生する義務、義理、セックス、その他。一時の安全のために耐えることはできても、それが一生続くなんて寒気がする。
……美人なら人生がイージーなんて嘘だと思う。美しさは武器になるけれど、誰もが上手に武器を扱えるわけじゃない。わたしたち母娘は自分が血塗れになるばかりで、少しも上手く使えなかった。
「もう行くね」
コーヒーを飲み干したわたしが玄関に向かうと、母が上着を持って追いかけてきた。ユニクロのUVカットパーカーだ。日差しに弱い白い肌も母譲りである。
「これ着て行って」
「はい」
「日焼け止め塗ったよね?」
「うん」
「和美ちゃんによろしくね。こんど家にも遊びに来てって伝えてね」
「うん」
「……可憐ちゃん」
「なに」
「何でもない。いってらっしゃい」
今日も3LDKから出ない母の見送りを受けて、わたしはマンションを後にした。まだ梅雨前なのに日差しが強い。わたしはパーカーのフードをかぶって、幼馴染と会うために喫茶店に向かった。
つづく
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