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わたしのブログ

やさしい彼氏を殴っています

最初は、いちいち張り合ってこない素直さを好ましく思った。変にアドバイスをしようとせず、人の話を最後まで聴いて、無理に結論を出そうとしないところには思慮深さを感じたし、わたしの決断や考えを尊重してくれる優しさに惹かれた。でも今は、それらすべてが鬱陶しくて彼氏をたびたび殴っている。

やさしい彼氏を殴っています

前の彼氏と別れた時、もう恋愛はしないと誓った。元彼氏は同僚だった。付き合い始めてすぐにわたしは昇進し、彼は退社し独立した。リスペクトしあえる関係を築けていたのは最初のうちだけで、仕事にプライドを持っているからこそ、わたしたちは次第に張り合うようになってしまった。延々とぶつかり傷つけあうことを、切磋琢磨と言い聞かせるような恋だった。

彼がアシスタントの女子大学生に手を出していたのを知った時、わたしは声をあげて笑い、同時に安堵した。ずっとずっと、自分に非のない別れの理由を求めていた気がする。

交際2ヶ月で同棲を始めてしまった2LDK。荷物をまとめながら、わたしは恋愛に向かない性質を改めて自覚した。今まで10人以上と付き合っておいて、誰とも1年続かなかった。そのくせに、別れる際には毎回律儀に傷ついている。もう終わりにしたいと思った。ひとりで生きていく覚悟さえできれば、心おだやかに仕事に打ち込める。伴侶の代わりに天職といえる仕事に出会えたのだから、もうきっと、それでいいのだ。

……そう思ってマンションまで買ったのに、決意から2年も経たないうちに、うっかり彼氏を作ってしまった。名前を悠斗くんという。

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あの日、久しぶりに定時にオフィスを出たわたしは迷わず高島屋に向かった。デパートの開いている時間に帰れるなんていつぶりだろう。好きな作家の新刊を手に入れ、コスメフロアのAYURAに寄って入浴剤と化粧水を買った。

久しぶりに湯船に浸かって、お気に入りの紅茶を飲みながら本を読もう。マッサージに行くのもいい。駅前の中国マッサージ店は、今からでも予約がとれるだろうか……うきうきしながら予約サイトにアクセスした時、インスタグラムの通知が届いた。内容は友人からの他愛のないDMだったが、フィードに流れてきた写真に目が止まった。更新頻度が低いのでフォローを外さず放置していた、元彼氏の投稿だった。

「結婚しました!」

元彼氏に寄り添う女性は、あの時の女子大生ではない。同年代の保育士だという。幸福感でミチミチに膨らんだ桃色の頬をした、すべてが柔らかそうな女だった。……この2年、元彼氏のことを思い出したことはほぼなかったのに、指先が冷えて高揚していた気持ちが萎えた。


自宅の最寄駅に着いたわたしは、マッサージ店に寄る気も失せ、でも家にひとりでいたくもなくて、商店街をふらふら歩いた。小さな飲み屋に目が止まる。特に酒好きでもないけれど、きっと人はこういう時、ひとりで飲みたくなるんだろう。暖簾をくぐったその店で、わたしは悠斗くんと出会った。彼はものすごく聞き上手で、初対面のわたしの愚痴を嫌な顔ひとつせずに聞いてくれた。

悠斗くんは6つも年下で、聞いたことのない大学の経済学部を出ていた。資格と言えるものは簿記3級だけで、小さな会社の経理部で働いている。「給料は安いけど、楽だし早く帰れるから幸せ」と微笑む彼は、今まで私が付き合ってきたタイプとは真逆だ。ちなみに趣味は料理らしい。スパイスから作るカレーとか、何時間もかけた煮込み料理とかじゃなく、スーパーの安売り食材に工夫を凝らして作る感じの。連絡先を交換し、時おり飲みに行くようになってから、惹かれるまで時間はかからなかった。

 

悠斗くんの日々は規則正しく、残業も出張もほとんどない。給料は世代平均に満たないが、それを気にするそぶりはなかった。彼が住んでいた1Kのアパートは狭く、家具と呼べる物はローテーブルとベッドだけだった。ソファのない部屋で立ち尽くしたわたしに向かって、彼は照れもせずベッドに座ってくれと言った。築30年の木造建築は、階段を登ると不穏に軋み、オートロックはなく、常にインターホンの調子が悪かった。けれど悠斗くんの部屋は日当たりがよく、水回りはピカピカで窓辺では豆苗が育っていた。シングルベッドで目覚めた朝、悠斗くんが作ってくれた朝食は豆苗と卵の炒め物だった。歯応えを残した豆苗に、とろとろの卵とソースが絡んで美味しい。めまいがするほど美しく、尊い生活がそこにあった。

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交際半年を過ぎた頃、悠斗くんのアパートの取り壊しが決まった。引っ越しを余儀なくされた彼に同棲を持ちかけたのは自然な流れだった。彼となら暮らしていけると思った。少ない家電や家具を処分し、段ボール3つだけ持って、彼は我が家にやってきた。よろしくお願いします、とはにかむ顔が可愛かった。

 

綺麗好きの悠斗くんのおかげで、マンションはいつでも清潔な状態を保てるようになった。洗い立てのシーツの心地よさ。洗濯物が溜まらない快適さ。水回りの汚れを見て見ぬふりしなくて済む気持ちよさ。悠斗くんは主夫ではないが、専業主婦の妻を持つ同僚は今までこんなサポートを受けていたのかと思うと嫉妬するほどだ。悠斗くんからは毎月3万だけもらい、その他ローン返済や生活費はわたし持ちだった。彼はせめて月々の返済額の半額を払うと言ったが断った。多少支出は増えたものの、生活の細かな雑事に気を取られない暮らしは快適だった。本当に幸せな日々だった。

 

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きっかけは些細なことだった。クリーニングに出したワンピースの受け取りを頼んでいたことを、彼が忘れていたのである。同棲を始めて半年、つまり交際1年が経とうとしていた頃だった。

 

「は? わたし、頼んだよね?」
思うより冷たい声が出てしまい、自分でも驚いた。「え?」というように、悠斗くんが小さく目を見開く。あ、でも、別にワンピースなら他にもあるし……そうフォローを入れようとした瞬間、被せるみたいに彼が口を開いた。

 

「ご……ごめん……」
クリーニングに出している服は、翌日のパーティで着るつもりでいた。けれど、クローゼットには、他にも場にふさわしい美しい服がいくつも並んでいる。怒るようなことではないのに、彼の怯えた顔を見た途端、自分でも戸惑うほどの怒りが込み上げてきた。わたしは箸を置き、彼が時間をかけて作ってくれた夕食を残して寝室に向かった。乱暴にドアを閉める音がした。自分がたてた音なのに、他人ごとみたいに「音がした」と思った。

 

寝室のドアに背をつけたまま、自分の心臓の音を聞いていた。仕事は変わらず順調だったが、ストレスがないわけではない。当時は上司と相性が悪く、苛立つことも多かった。だからって、こんなのは完全に八つ当たりだ。謝らなくてはならないと思った。いま謝ればきっと大丈夫……。その時、ドアの向こうから声がした。

「本当にごめん。明日朝イチで取りに行くよ。パーティは何時から……?」
彼が機嫌をとりにきたことに安心して涙が込み上げる。ううん、ごめんね、大丈夫だよ。このドアを開いて謝れば済むとわかっているのに、先に謝られたことでかえって心が固くなる。結局、その日は口を聞かないまま、わたしはベッド、悠斗くんはソファで眠った。

 

翌朝、言葉通り彼はワンピースを受け取りに行ってくれたけれど、わたしは当てつけのように別のドレスを着て出かけた。悠斗くんの悲しげな顔が頭に浮かんで、パーティはちっとも楽しくなかった。帰ったら彼がいない気がした。泣くのを堪えて乗ったタクシーの窓からミスタードーナツの看板が見えて、運転手に車を止めてもらった。悠斗くんの好物のフレンチクルーラーをふたつだけ買う。なんの罪滅ぼしにもならないドーナツを、いないかもしれない人のために。非合理な祈り。あるいはおまじないのようだった。

いてほしい。謝りたい。でもいなくても大丈夫。わたしはひとりでも平気。だけど、だけど……。ごちゃ混ぜの思いを抱えながら鍵を差し込んで、玄関に彼の靴があるのを見て胸を撫で下ろした。悠斗くんはキッチンで料理をしていた。夕飯づくりと言うよりは、心を落ち着かせるための作業といった感じだった。

「ただいま!」
胸に愛しさが込み上げて、わたしは彼に抱きついた。ミスドの袋が床に落ち、一瞬こわばった体から、悠斗くんの戸惑いが伝わった。けれど、すぐに温かい腕がわたしの背中に回る。

「ごめんね」
「ううん、わたしこそ」
昨日どうしても言えなかった言葉が、するりと口からこぼれ出た。悠斗くんの体が小さく震えて、泣いているのがわかった。申し訳なくて、切なくて、愛しい。どんな言葉をもらったときより、強く愛されていると感じた。ずっと大事にすると誓った。……それなのに、逆にこの出来事を機に、わたしは悠斗くんに度々あたるようになってしまった。


悠斗くんは気が利くが少々抜けている。悪気のない粗相があるたび、わたしの感情は必要以上に乱れた。店の予約をし忘れたのは、デートを楽しみにしていないからでは? 朝食にしているゼリー飲料を常備しておいてくれないのは、わたしが大事じゃないからでは? 土日に友達と遊びに行くのは、わたしといるのが嫌だからでは? この頃のわたしは、すべての行動を自分への愛情と紐づけて、少しでも不安になれば乱暴な形で確かめずにはいられなかった。

言葉が乱暴になり、物にあたるようになり、手が出るまではあっという間だった。作ってくれた食事をゴミにし、時には彼の存在を無視して、気分次第で肩を小突いた。平手で頬を打つことさえあった。悠斗くんは怯えた目をして、ごめんなさいと謝り続けた。その悲痛な声色さえも余計に火に油を注いだ。謝ればいいと思うなよ。
怒りの炎がおさまると、理不尽な仕打ちをひどく悔やんだ。泣きながら謝れば、悠斗くんも泣いて許してくれた。感情を受け止めてもらえる安堵。わたしは許される快楽に酔っていた。

 

悠斗くんはリマインダーのアプリを使い、用事や買い出しを忘れない工夫を取り入れた。それからは実際、その種の失敗は激減した。そうなると、今度は行動以外の部分が気になってきた。例えば仕事への向上心のなさ。本を読まずアニメばかり見ていること。どんな映画や美術展でも「面白かった」しか感想がないこと。趣味の違いは付き合う前からわかっていたし、人生の中心に仕事を置かない所が好きだったはずなのに、どうして……いや、わかっている。わたしはただ、許されたかったのだ。許されるためには暴力を振るわねばならず、暴力を振るうには理由がいる。

 

「死滅回遊のルールもわかってないんだ?」
夕食中、呆れたようにわたしが言うと悠斗くんの顔がこわばった。死滅回遊は漫画・呪術廻戦に出てくる一種のデスゲームである。悠斗くんは呪術廻戦が好きで、単行本はもちろんジャンプ本誌まで買っている。悠斗くんの買った単行本をわたしも読み始めたのだが、死滅回遊のルールは複雑で、読み流しでは把握が難しい。いくつかの疑問を彼に投げてみたものの、大した答えは得られなかった。

 

「普通、好きなものならちゃんと理解したくならない?」
「……ごめん、俺、バカだからさ」
悠斗くんはへらりと笑ったが、目の奥でわたしの機嫌をうかがっていた。さすがにこのくらいのことでは、手が出るほど感情は昂らない。その後は別の話題に切り替え、和やかな会話を楽しんだ。翌朝、わたしは悠斗くんが買い置きして冷やしてくれているゼリー飲料を飲んで出社した。「いってらっしゃい」と見送る顔は、いつも通りに見えていた。

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仕事を終え、23時頃に自宅に戻った。リビングの電気は消えている。もう寝た? お風呂? とまで考えて、今すぐお風呂に入りたかった気がしてきた。舌打ちをする。

 

「ただいま。いるの?」
呼びかけながら寝室とお風呂を覗いたが、やはり明かりはついていない。飲みに行くとは聞いていない。ふつふつと怒りがわくのを感じた。LINEで電話をかけたけれど、一向に彼は出なかった。ダイニングテーブルの上にはラップのかかった夕食があった。その上に1枚のポストイット。「ごめん」とだけ書かれていた。息を呑む。心臓がぎゅっと縮こまるような感覚があった。

 

嫌な予感がして、チェストの一番下の引き出しを確認する。貴重品入れにしているポーチの中から、彼の通帳・印鑑・パスポートがなくなっている。もちろん財布やスマホもない。

絶望が胸に広がって、わたしは床に崩れた。タイツ越しのフローリングが冷たい。

「いまどこ」
「なんで?」
「早く帰ってきて!」
続けざまにLINEを送るけど既読にならない。祈るような気持ちでLINEのスタンプストアをタップして、マイナーなイラストレーターのスタンプを選ぶ。プレゼントボタンを押し、震える指で悠斗くんのアイコンに触れた。

「プレゼントできません」の文字に、頭が殴られたような衝撃を受けた。続く「Yutoはこのスタンプを持っているため〜」の文章に失笑が浮かぶ。そんなわけない。悠斗くんはディズニーか、アニメのスタンプしか使わない。

 

スマホの画面に水滴が落ちて、自分が泣いているのに気づいた。一度自覚してしまったら、もう涙は止まらなかった。わたしはしゃくり上げ、子供のようにわんわん泣いた。自分で吟味して買ったマンションは、防音設備もしっかりしている。泣き声は悠斗くんどころか、壁一枚を隔てた隣人にすら届かない。

 

なんで今日、と思う。愛想をつかされる言動に心当たりがないとは言えない。でも昨日まで普通に喋って、笑って、セックスこそしなかったけど、一緒のベッドで寝たじゃない。ずっと前から家を出る計画をしていて、それが今日だっただけ? それとも……それとも死滅回遊の件を馬鹿にしなかったら、悠斗くんはまだこの家にいた? 

狂ったように泣きながら、どこかでわたしはずっと、この恋の結末をわかっていたようにも思った。わたしには愛される才能がない。許されることでしか愛を実感できない。相手を傷つけ、許されることで自分の心は満たされても、相手の心の傷は癒えずに血を流し続ける。それに気づいていなかったのではない。血を流しながらそばにいてくれることこそ、愛だと思い込んでいた。今のわたしには、許されるどころか謝る道すら絶たれている。

 

ふと本棚に目をやると、下の段がごっそり空いていた。呪術廻戦がなくなっていた。なぜか笑いがこみ上げる。呪術廻戦は持っていくんだ。この部屋にわたしひとりを残して。

 

いつしかカーテンの隙間から朝日が差し込み、朝がやってきたのを知った。会社に行きたくない。初めて仮病を使うか迷った。だけど、考えてみれば、これは振り出しに戻っただけなのだ。わたしはひとりで生きていくためにマンションを買った。ひとりの女は働かなくては生きていけない。立ち上がり、水を飲もうと開けた冷蔵庫には、タッパーがたくさん並んでいた。中身は地味で、素朴だが栄養満点の手作りのおかずだった。

 

おしまい

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