大学デビューに失敗し、友達の前に彼氏ができた。恭弥くんとはじめて目が合った時、ああこの人だと思った。すぐに付き合い始め、ひとり暮らしの彼の部屋に入り浸るまで時間はかからなかった。最低限の授業への出席とバイトの時間を除き、わたしたちはずっと一緒にいた。
開け閉めするたび不穏な音を立てきしむ窓、狭くてチャチなユニットバス、染み付いてしまった煙草の匂い。大学時代の思い出はほとんど、あの狭いアパートの部屋の中にある。恭弥くんの部屋には大きな本棚があったけれど、そこに収まりきらない本や漫画がそこかしこに積んであった。それらはすべて、後世のクリエイターや恭弥くん自身に影響を与えた本だと言う。合わないものも多かったけれど、いくつかの作品は、心にすっと染み入ってわたしの一部になった気がする。
恭弥くんはファッションと文学、映画が好きな人だった。わたしは別にお洒落じゃないしサブカルに詳しくもなかったけれど、変に主張のないところが良かったらしい。恭弥くんの選んだ服を着て、おすすめされた映画を観て、わたしはどんどん彼の色に染まった。ずっと伸ばしっぱなしだった髪をモードなボブにカットした時、自分でもぐっと垢抜けたのがわかった。新しい自分になれた気がした。頭が空っぽな同級生たちとは違う、かっこよくて芯の強い特別な女の子に。
……付き合い始めるのがせめて1年遅かったら、もう少し周りに馴染めていた気がする。わたしたちは入学早々にふたりで殻にこもってしまった。
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2年生の秋、同級生の梶谷さんにキャンパスで声をかけられた。彼女は映像研究サークルに入っていて、年末の休みを利用して短編映画を撮るつもりだという。その映画への出演依頼だった。
「まずは読んでみてほしい」と渡された脚本を持ち帰った。帰るのはもちろん彼の部屋だ。恭弥くんはバイトで留守だったので、合鍵を使って中に入る。わたしと彼のパジャマや下着が干されてベランダではためいていた。取り込んで軽く畳んでから、わたしは梶谷さんの脚本を読み始めた。劇的な展開はない。でも登場人物やセリフに温度があって、押し付けがましくない優しさを感じる物語だった。原作はなく、すべて彼女の創作らしい。素直にすごいと思ったし、圧倒された。脚本中、ひとつの役柄の名前が蛍光ペンでマークされている。わたしに演じてほしい役なのだろう。登場シーンは多くないが、重要な役柄だった。
バイトから帰ってきた恭弥くんに、梶谷さんに映画への出演を頼まれたと話した。脚本が彼女のオリジナルだと伝えると、彼の右頬がぴくりと動いた。
「貸して」
恭弥くんはわたしから脚本を奪い取ると、無言でそれを読み始めた。ほんの数分で読み終えた彼が、ベッドの上に放り投げるように脚本を置いた。
「“あの辺”らしいうっすい話だね」
”あの辺”というのは、当時のわたしたちがよく使っていた言葉だ。キャンパス内で騒ぎ、大学生活をくだらない飲み会で浪費している、やたらと声の大きな同級生たち……いわゆる陽キャと言われる男女の集団を、ひとくくりにしてそう呼んでいた。
「恋愛体質のバカ女の自分探しストーリーじゃん」
恭弥くんの顔にははっきり嘲笑の色が浮かんでいる。
その時わたしの頭に浮かんだ戸惑いは、恭弥くんと過ごす中で初めての感覚だった。たしかに、物語は主人公が彼氏に振られるシーンで始まる。元彼氏から手切れ金のように押し付けられた5万円を握りしめ、主人公は衝動的な旅に出る。でも失恋は最後のひと押しだ。彼女の家族との不和や就活への不安、いまいちしっくりこない友人関係の中での孤独など、主人公の背景はきめ細やかに描かれている。タイミングが違えば、友人の何気ない言葉や就活のお祈りメールにが引き金になったのは想像に難くない。
こんなに本を読んでいる恭弥くんが、どうしてわからないんだろう。……いや、ちがう。たぶんこの人は……。浮かんだ言葉を口に出すわけにはいかなかった。かさついた唇を噛んでこらえる。
恭弥くんは脚本をこき下ろし、悪口の矛先はやがて梶谷さん本人に向いた。梶谷さんはいい人だ。誰にでも分け隔てなく親切で明るい。そのことは、わたし……いや、恭弥くんだって本当はわかっているはずだ。だけど、わたしたちは梶谷さんを下に見ていた。入学祝いに親からもらった財布だけがハイブランドで、あとは上から下まで海外通販で買ったペラペラの服を着ているから。SNSのノリが痛いから。文学部のくせに芥川もろくに読んでないから。BL出身の女性作家のファンだから。
後から知ったのだけど、わたしたちはふたりとも第一志望の大学に落ちていた。そのことも多分、選民意識?――自分は本来、こんなバカ大に通う奴らとは違うのに、というような――に拍車をかけていたように思う。...