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わたしのブログ

口裂け女とTOKYO HUNTING DAYS / Chapter1:新宿の口裂け女(1)

Chapter1:新宿の口裂け女

汚い事務所で目が覚めた。酸っぱい匂いでまたゴミを出し忘れたことに気づく。足元に転がるペットボトルを足で端に寄せ、ソファベッドから起き上がる。時刻を見ると17時。年中閉めっぱなしのカーテンの隙間から、オレンジ色の陽が射している。

 

顔も洗わず、着替えすらせず家を出た。出がけに充電器から引っこ抜いてきたスマホ、事務所の鍵とポケットに入った小銭、有線イヤホンが持ち物のすべて。履き潰したスニーカーは底にうっすら穴が空いていた。盗られて困る物はないが、『阪本相談室』と投げやりな紙が貼られたドアの鍵を一応かけておく。開業祝いに葉月からもらったガジュマルが枯れかけているのは見ないふりをした。

 

商店街を通って駅へ向かう。通りがかった定食屋の立て看板に書かれた「火曜の日替わり定食・ポークソテー」で曜日を確認する。最寄りの東中野駅から総武線で新宿へ。ホームで写真を撮って父親に送信。すぐ既読になって返事が来た。
「今日もよろしく。パパは今から岡山の現場☺️」
もちろん無視してスマホをしまった。

 

新宿駅の構内を無駄に歩いて、たまにホームのベンチに座り、行き交う人達を観察した。特に怪しい者はいない。……いや、いる。スマホを見ながら歩いている若い女の子の後ろを、中年の男性がぴたりとついて歩いている。あれは何かを狙っている目だ。だけど、わたしにできることはない。わたしは目を逸らし、人をパンパンに乗せて走り去ってゆく電車を眺めた。

 

改札を出て街を歩く。ぬるい風から事務所と同じ生ゴミの匂いがしてホッとする。いつでも誰かが吐いていて、ストロングゼロの空き缶が転がっている街。だけど、ここではサラリーマンもホストも主婦もホームレスも、風呂キャン3日目の自称探偵の無職も、等しく埋もれて背景になれる。そういう闇鍋みたいな街なので、わたしはけっこう新宿が好きだ。

3丁目からゴールデン街方面を歩き、途中でチェーンのカフェに立ち寄る。一番安いアイスコーヒーを持って席についたところで、後ろから嘘が聞こえた。
「ごめん、その日はママとランチなの」
カップルの女の方が、デートの提案を断ったようだ。わたしは注文の際に外したイヤホンを深く差し込み、何百回も聞いたプレイリストを大音量で再生した。

 

カフェを出て、伊勢丹前までついたところで時刻は20時近くになっていた。今日も異常なし。父に報告しようとスマホを手に取った時、目の前を一人の女が通り過ぎていった。わたしは思わず顔を上げた。マスクをつけ、長い黒髪を後ろでまとめた女から、不吉な匂いが漂っている。わたしは唇を舐め、スマホをポケットにしまってから、静かに女の後を追った。

 

女は新大久保方面に向かった。ヒールのあるサンダルで姿勢よく、早足で歩いてゆく。肩かけの小ぶりなバッグのほかに、デパートで買ったらしい化粧品の紙袋を持っている。見た目は普通の若い女だ。わたしよりよっぽど清潔感がある。

ドンキホーテの前に差し掛かったところで、一人の男が女に近づき声をかけた。内容は聞き取れないが、どうせナンパかスカウトだろう。女は男を一瞥したが、その後は存在を無視するみたいに道を進んだ。それでも男はあきらめない。腰に回した手を振り払われても、つきまとうのをやめなかった。わたしの耳に、自分の口から漏れた舌打ちの音が届いた。

 

ふと女が足を止め、男の方を見る。気が変わったのだろうか? ほんの短い立ち話の後、女が誘導する形で二人は歩きだした。大通りから路地に入り、どんどん暗く、細い道に入ってゆく。わたしは十分に距離をとって彼らを追跡した。ある種の予感と確信があった。今すぐ介入すべきでは、という考えが頭をよぎったが、わたしの中の何かがそれを押し留めた。「何か」の正体は、今は考えないことにする。

 

二人が曲がった角を覗き込む。袋小路なのに誰もいなかった。シミだらけのコンクリートの上に、男の物らしいクラッチバッグだけが転がっている。不吉の残り香のようなものが、空気の底を漂っていた。わたしはバッグを開けて、男の財布から免許証を見つけた。素早く裏表を写真に収める。10分ほど経った頃、怪異の——あの女の気配が急に濃厚になる。わたしはバッグを地面に投げ捨て、再び気配を殺して路地裏に隠れた。

女は何もないところから、当然のように現れた。手や服はまったく汚れていないが、新鮮な血の匂いを纏っている。そして、マスクをしていない。素顔の女の口は耳元まで裂けている。赤い肉とガタガタの歯が見え、わたしは息を呑む。間違いない。あの女がターゲットだ。都市伝説と思われていた、新宿の口裂け女。


*

「口裂け女?」
父親から依頼を受けた時、わたしは思わず首をかしげた。月に一度の実家詣での、夕食を終えた席のことだった。妹はまだ帰ってきていない。わたしと違って社交的で明るい妹は、高校生活を満喫しており遊びとバイトに忙しい。

 

「前から噂はあったんだ」
父は言いながら頭をかいた。迷いがある時の父の癖だった。白髪交じりのチリチリの髪は、今日も四方八方に爆発している。よれよれの白いTシャツの上に腹巻をして、派手な半纏を羽織っている。いつも首からかけている木製の数珠は樹齢うん千年のありがたい神木で作られたものらしいけど、真偽は定かではない。下はダボダボのスウェットパンツで、外出時は下駄を履いている。これがわたしの父・久世道玄。職業は霊媒師であり、当然近所の名物ジジイだ。

 

「口裂け女。クラシックだわ」
ダイニングテーブルを挟んで向き合う父とわたしに、母が温かいお茶を運んできた。何が使われているかは知らないが、飲むとやたらと体が温まる母特製のハーブティ。母はそのまま、父の隣の椅子に腰をおろした。腰まで伸びた髪は父とは正反対のストレートヘアで、光を吸い込むほど黒い。いつも重そうな黒いワンピースを着ているために、死人のような白い肌が際立っている。名前は久世静といい、職業は占い師だ。うちは近所でアダムスファミリーと呼ばれ、家はお化け屋敷と言われているが、本当に仕方のないことであった。

 

父の話では、新宿に口裂け女が出るらしい。出る、というよりそういう噂があるのだという。口裂け女と言えば、口が耳まで裂けた化物である。普段はマスクをしており、主に子供に向かって「私、キレイ?」と問いかける。素顔を見ても逃げずに「キレイ」と言い続けると満足して帰ってゆくとか、ポマードと3回唱えればいいとか、好物のべっこう飴を渡せばいいとか、対処法には諸説ある。いずれにせよ、口裂け女は昭和や平成の初期に流行った噂話であり、実在は確認されていない。そんな口裂け女が、令和の新宿に? にわかには信じられない話だった。

 

「根も葉もない噂……都市伝説と思っていたんだけど、ついに同業者から目撃情報が上がった。彼は手に負えないと悟って、手出しはしなかったらしい」
「はぁ……その人、信頼できるの?」
「微妙なラインだね。能力に少しムラがあるのと、話を大きくするところがあるから、みんな半信半疑ってところ。で、その調査を塔子にお願いしたい」
なんでわたしが、とは言えなかった。わたしは実家を出て、知り合いから引き継いだ探偵事務所を経営している。だけど経営と言っても名ばかりで、実態はほとんどニートである。これまでの依頼も父からのお情け仕事ばかりで、例外は近所の小学生から持ち込まれた野良猫探しのみだった。

 

父が提示した調査料は、月々10万円だった。条件は週に4日以上新宿に出向き、父に報告の連絡を入れること。調査方法は自由。ノルマなし。あくまで依頼は調査であり、その先に踏み込む必要はない。

これは依頼という名の仕送りであり、両親に連絡をさせる口実なのは明らかだった。……27にもなって情けないが、月10万は絶対に欲しい。わたしはふたつ返事で了承した。

 

帰り際、玄関先で母がわたしの手を握り、言った。
「塔子ちゃんなら大丈夫だと思うけど……無理はしないでね」
冷たくてなめらかな手だ。わたしは苦笑しながら答える。
「わかってる。大丈夫」
「よく食べて寝るんだよ。気をつけて」
父の言葉にわたしは頷き、妹によろしく伝えるよう言って、両親に背を向け歩きだした。

 

実在不明の妖怪探し。真偽不明の目撃情報。「新宿」という具体的なようでぼんやりとしたエリア。見つかる望みは薄いが、誰も本気で望んではいない。依頼については気は楽だったが、それより両親に持たされた、手作りのおかずとハーブティの入った袋が重かった。わたしは食が細い。何を食べても大して美味しいと思えない。おかずは半分以上腐らせて捨てることになるだろう。わたしはコンビニの弁当を食べて日々を過ごし、冷蔵庫の中でゆっくりとおかずを腐らせる。完全に腐ってから、それを言い訳にして捨てるのだ。変えられるのに変えられない未来に気が滅入る。……せめてハーブティは葉月にあげようと思いながら、わたしは実家の最寄りの駅に向かった。

 

*

……本当にいたんだ。

口裂け女を見つけたのは、思いがけない幸運だった。父の言う『同業者』が逃げ帰ったのも頷ける程度に強力な怪異であるのは気配でわかった。でも、わたしならやれる。今、わたしたちは人通りのない路地にいる。討伐場所としては申し分ない。けれどわたしは追跡を選んだ。腹の奥から鈍い興奮と、名前のつけ難い感情がわきあがる。息を殺し、気配を絶って、女の背中を追いかける。夜風に乗って届く血の匂いは、先程の男の顛末をはっきり物語っている。

 

驚くことに、女はわたしの事務所のある東中野方面に向かった。女が入っていったのは、駅からほどい住宅街にあるマンションだった。ラーメン屋の向かいの白い外壁の建物で、外から見る限り3階建て。築年数はそこそこだろうが、手入れはきちんとされていそうだ。廊下が内側にあるタイプらしく、スッキリとした箱型の外観だ。事務所とは駅を挟んで反対側だが、徒歩で10分もかからない。

 

わたしは唖然とした。口裂け女は、新宿どころかいつ遭遇してもおかしくないほど近所に住んでいた。そして——何よりこのマンション。何度も通った道なのに、まるで見覚えがない。特徴がないのは確かだが、それにしても存在感が希薄すぎる。エントランス脇の古びたプレートには『グリーンハイツ東新宿』と書かれていた。文字の一部が剥がれ、『リーンハイツ東新宿』になっている。わたしは表札の写真を撮って、外からマンションを見上げた。明かりのついている部屋は少ない。念のため地図アプリでもピンを刺しておく。

 

父に報告すべきなのはわかっていた。だけど、わたしはそうせず「調査終了」とだけ送った。毎回調査の開始と終了時に、父に連絡する約束になっている。返事はやはりすぐに来た。ウサギのキャラクターがお茶を差し出す「お疲れ様」のスタンプと、「こちらも無事完了✌️」というメッセージ。今日の父の『現場』は、有名な心霊スポットである岡山の廃病院だ。そこに巣食っていた何かしらを、無事に討伐できたらしい。

わたしはマンションを後にした。怪異とその被害者を目撃したばかりだというのに、気分はやけに穏やかだった。奇妙な興奮はすでに引いていて、胸には名前のつけ難い感情だけが残っていた。複雑に混ざりあう思いの一部が期待であることに、わたしは気づいていた。

 

つづく

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