
(前回の話はこちら)
翌日、インターホンで目が覚めた。寝ぼけ眼で時計を見ると12時だった。閉めきったカーテンを通り抜けた光が、事務所を薄明るくしている。わたしはソファーベッドに横たわったまま、あたりをまさぐりスマホを手に取るが、画面は真っ黒で何も表示されていない。充電が切れていた。
インターホンは鳴り続けている。わたしは寝ぼけ眼で身を起こし、事務所の入口に向かった。歩きながら意識がはっきりしてきて、葉月と約束していたことを思い出した。立ち止まって見渡した事務所は相変わらずひどい有様で、衣類は山積みになり、空のペットボトルが壁際に転がり、デスクにはうっすらホコリが積もっている。今日も怒られる理由しかない。いつも葉月が来る前に、少しは片付けておこうと思うのだけど、実行できたためしはない。
「遅い!」
葉月は開口一番そう言って、事務所内に足を踏み入れ愕然とした。
「嘘でしょ。汚すぎる」
「ね」
「ね。じゃない。よく一ヶ月でこんなに汚せるね?」
葉月はため息をつき、持参したケンタッキーの袋を仕方なく、といった様子でローテーブルに置いた。そして、ため息をつきながら肩までの髪をヘアゴムでまとめ、言う。
「とりあえずゴミ袋出して?」
葉月に言われるがまま掃除を行い、2時間で事務所は見られる状態になった。パンパンになったゴミ袋2つが壁側に寄せてある。必ず次のゴミの日に捨てることを約束させられ、ようやくわたしたちは応接スペースのソファに腰を下ろした。レンジで温め直したチキンからスパイスと油の匂いがする。わたしは冷蔵庫からペットボトルのお茶を取って、紙コップに注いで出した。
「いつもごめん」
「いや、いいけどさ……」
葉月は鞄からウェットティッシュを出してローテーブルに置いてから、チキンに手を伸ばした。爪が短く整えられた清潔な手だ。ゴムをほどいた葉月の髪は、サラサラと顔の横に垂れている。いつ会っても、葉月の髪は染めたてみたいに綺麗だ。
「相変わらずだね。また痩せたんじゃない」
「どうだろう。測ってないからわかんないな」
「もっと健康的なもの買ってくれば良かった。野菜とか食べてる?」
「野菜ジュースならたまに」
「それは野菜じゃありません」
葉月は心配そうに眉を寄せ、チキンをひと口かじった。
「こんなとこ住むのやめてアパートでも借りたら。お風呂だってないし」
「うーん。でも、気に入ってるから」
嘘ではない。前の持ち主から引き継いだこの事務所はだいたい60平米で、一人暮らしには十分な広さだ。入ってすぐにソファとローテーブルのある応接スペース、その奥にミニキッチンとトイレ。右側奥にはかつて事務員が使っていたスペースがあって、今はカーテンで仕切ってわたしの部屋となっている。ベッドはソファベッドだし、ろくな収納もないけれど、こぢんまりした部屋は妙に落ち着く。
「最近はどう? 変わらず?」
「うん。父親から受けた仕事をゆるーくね」
「……お化け関連、だよね?」
「まぁ、そう」
幼馴染の葉月は、うちの事情をよく知っている。なにしろわたしはお化け屋敷の子でアダムスファミリーの一員であるため、子供の頃は当然のようにいじめを受けた。そんな中、わたしを庇ってずっと友達でいてくれたのが葉月だ。正直で嘘のない人だ。……わたしが知る限り、ほとんど唯一の。
「危なくないの?」
「全然。ただの調査だし……あ」
言いながら、昨日のことを思い出す。ついに口裂け女を見つけ、その住居までを特定した。クリアになった頭で改めて考えると、いま葉月のいるこの事務所が、口裂け女の居住地から徒歩10分の距離であることに思い至ってゾッとした。思わず立ち上がる。
「ごめん。葉月、帰ってほしい」
「え!? なに急に」
「いいから。今すぐ荷物まとめて」
「なんで? 誰かと約束あったとか?」
「理由は言えない。けど帰って。駅まで送る」
「いや、送ってくれなくていいけど……」
「ううん、送る。送るから」
わたしの勢いに押されて立ち上がった葉月の背中を、押し出すようにして事務所を出た。鍵をかける直前に、母から渡されたハーブティの存在を思い出して葉月に押し付ける。それからまっすぐ彼女を東中野駅に送り届けた。改札前で、しばらく東中野や新宿に近づかないよう忠告した。葉月は怪訝な顔をしたが、理由も聞かずに頷いてくれた。20年の付き合いの賜物である。
「ごめんね。今度埋め合わせさせて」
「それはいいけど……ねぇ塔子、危ないことはしないでね」
心配そうな葉月に「約束します」と返して見送り、わたしはすぐに事務所に戻った。充電しておいたスマホを持って、グリーンハイツ東新宿——口裂け女のマンションに向かった。時刻は15時を回っていた。
*
グリーンハイツ東新宿は、明るい光の中で見ても、やはり異様に存在感がない。目的を持って向かわない限り、意識を向けようのない建物だった。3階建てで、部屋は全部で15戸ほどか。どの部屋に口裂け女が住んでいるのかはわからない。わたしは何食わぬ顔をしてマンションに入った。エントランスの左側に郵便受けが並んでおり、向かいには管理人室がある。この規模のマンションに管理人室? ……やや不可解に思ったが、管理人は不在のようだった。郵便受けを観察するが、どの部屋にも名前の記載はなかった。202の郵便受けだけ、詰まっているのか白い封筒がはみ出しているが、なんとなくあの女の部屋ではない気がした。
「あら? 何やお客さん?」
入口の方から声がした。見ると、コンビニのレジ袋を持った男性が立っていた。年は30歳前後か。パーマをかけた茶髪が肩まで伸びて、根元が黒くなっている。派手な模様の半袖のシャツと、長袖のTシャツを重ね着している。下はジャージと便所サンダル。色付きの眼鏡と無精髭が怪しさを引き立てていた。
「どうも」
「何しに……あーそう、あーそうか……」
言葉を交わした瞬間に、お互い同類だとわかった。一般人にはない、ある種の磁力のようなものを感じる。
「ここの管理人やけど、何か用? めんどくさいことはごめんやで」
「このマンションの住人について知りたいです。背の高い、若い女性がいますよね。いつもマスクをつけている」
「知ら〜ん」
嘘だった。わたしは彼をじっと見つめた。彼はヘラヘラしたまま続けた。
「ただの雇われ管理人やねん。この通り真面目にやっとるわけでもなし」
男はコンビニの袋を指して言う。これは嘘ではなかった。
「いますよね。口裂け女が」
「口裂け女て!」
男は大口を空けて笑った。見えた歯は無駄に並びは良いが、明らかに喫煙者の色をしていた。
「知らん知らん。とっとと帰って〜」
「……お名前、聞いてもいいですか」
「はぁ? 誰の?」
「あなたのです」
「なんで〜? 聞く時は普通、自分からやろ」
「久世塔子です」
「……久世?」
彼の表情が露骨に変わった。
「……あの久世?」
「どの久世かは知りませんけど」
「まぁ、あの久世やろな……しかも塔子て。はぁ、なるほどなぁ……」
彼は沈黙し、考え込むように腕を組んだ。鋭くなる目から、わたしを値踏みするような視線が放たれる。そして、ある瞬間から急に緩んだ。
「いや〜失礼しました! まさか久世のお嬢さんとは! 自分、猪瀬忠親いいます! 口裂け女はマンションにいます! 本日はどんなご用件で!」
わざとらしい物言いに鼻白むが、言葉に嘘はない。わたしが「口裂け女を追ってる」と言うと、猪瀬は「ここでは何だから」と管理人室に通してくれた。ゴミゴミとした狭い空間に、一応来客用のスペースがある。
猪瀬はわたしをソファに座らせ、自分は安っぽいスツールに腰を下ろした。壁に貼ってあるカレンダーには、細かな予定が書き付けてある。見た目より几帳面なのかもしれない。
「狭苦しいとこですんませんね〜。久世のお嬢様に出すようなお茶はないもんで、こちらで我慢してくださいな」
猪瀬はわざとらしい笑顔でペットボトルを手渡してきた。近所の激安スーパーのオリジナルブランドだ。わたしは猪瀬の最後に目を向ける。管理人室の窓が見える。住人が出入りすればわかりそうだ。
「口裂け女が住んでるんですね」
「左様ですぅ〜」
言葉は丁寧ながら、言葉には人をバカにしたニュアンスがある。これが本来の彼なのか、わたしが相手だからなのかはわからなかった。
「何号室ですか?」
「うーん……堪忍したってくれません? さっきは勢いで答えてもうたけど」
猪瀬は上目遣いで手を合わせる。その可愛い子ぶった仕草が気に障る。
「ええ住人ですねん。家賃滞納せえへんし、ゴミ出しのルールは守るし」
家賃? ゴミ出し? あまりに日常的な言葉に逆に困惑する。壁際にゴミ収集日のポスターが貼ってあるのが目についた。
「ここ、俺以外全員人外のおばけマンションですねん」
彼は住み込みの管理人らしい。口裂け女は入居して4年ほど経つが、特に私的な交流はないと言う。ここまでの話に嘘はなかった。
「もっと悪いやつもいまっせ」
「……例えば?」
「204の肉食いジジイ。人間食うのは勝手やけど、人肉を普通にゴミに出すねん。分別もせえへんし、カスや」
わたしが黙っていると、猪瀬は続けた。
「202の吸血鬼も最悪や。女連れ込んで深夜まで騒ぐ上、共有部も汚すしな……こいつらに比べたら、口裂け女ちゃんは常識人やで」
「……彼女も人を殺してますよ」
「それ言われたらかなわんな〜」
猪瀬はヘラヘラと笑い、伸びをするように頭の後ろで手を組んだ。手首の内側に刺青が見えた。
「だけど普段は大人しいもんやで。平日は家で仕事して、近所のスーパーに行くくらいちゃう? ちゃあんとエコバッグ持ってな」
「スーパー……どこの?」
「サミットや。近いからな」
どうでもいいことを尋ねてしまって後悔した。
「騒音とかも全くないしなぁ……ジジイらにも見習ってほしいわ」
「ずいぶん庇うんですね」
「庇う? まぁ管理人やし、積極的に住人売るのは気が進まん。……でもなあ、別に義理もないんよな」
猪瀬は肩をすくめて続けた。
「……何より、久世を敵に回しとうないし」
「……どうしてですか?」
「死にとうないねん」
猪瀬は冗談めかして言うが、この言葉も本当だった。
猪瀬は棚からファイルを取ってわたしに手渡した。中身はあの女……口裂け女の身分証のコピーと入居申込書などの書類だった。合成なのか、マイナンバーカードの写真の口元は裂けていなかった。だけど目元や全体の雰囲気は、確かにあの女と同じだ。
「部屋番号は303、人間としての名前は久遠千紗。フリーのエンジニアや」
「全部偽装なの?」
「まさか。今の日本でそんなん無理やで」
猪瀬は薄ら笑いを浮かべて言う。
「……何年前やったかなぁ。ほんま嘘みたいな話やねんけど、たまたま山奥で死体を見つけてん」
……『嘘みたいな話』と言いながら猪瀬は嘘をついていた。でもこの話がどこに行き着くのか気になって、わたしは黙って続きを促した。
「可哀想に。あんなところで一人でなぁ……俺はご遺体に手を合わせて、読経してアーメンして祝詞を詠んだ。どの神様を信じてたかわからんからな。で、手厚く葬ったった代わりに身分証をいただいた。久遠麟太郎くん、21歳やったわ。身寄りのない子でねぇ」
奇妙なことに、この部分に嘘はない。薄ら寒い気持ちになる。猪瀬の表情に罪悪感めいたものは微塵もなかった。
「久遠麟太郎」
「そ。で、しばらく経ってこのマンションにあの子が、口裂け女ちゃんが来てん。働きたいから身分証なんとかならんか〜言われてな。久遠くんの身分証、あれをちょ〜っと性別とか、それに伴って名前も変えてね。今や立派な個人事業主」
驚くことに、これも嘘じゃない。
「性別って……そんな簡単に変更できるの」
「そこはね、まあまあ。諸々の書類は知り合いに頼んでなんぼか手作りしてもろた、かな? ずいぶん前やから朧げやわ」
「ここの住人はみんな身分証を持ってるということ?」
「まさか。これめっちゃ金かかんねんで。払える怪異はそうおらん。うちでは口裂け女ちゃんと吸血鬼だけやな」
嘘はない。わたしは質問をやめ、口裂け女の書類に視線を戻した。
「……たしかに開業届がある」
「納税しとんで。青色申告や。立派なもんやで」
業務委託契約書には、聞いたことのある企業の名前がある。業務内容はシステム開発支援だ。確定申告で使ったらしい書類には、去年の収入の記載まである。かなりいい額だった。
「こんなもの、見せていいんですか」
「ええわけないやん」
「じゃあなんで?」
「怖いもん」
猪瀬に書類のコピーを取ってもいいか尋ねると、彼は「ええわそれ、あげる」と言った。ルール上、一応管理しているだけで使う機会はないのだそうだ。いいかげんだなと思うが、ありがたく頂戴することにした。ついでに口をつけていないペットボトルも、お土産として持たされた。彼は連絡先の交換に応じたが、「俺ほんま雇われやねんから、巻き込まんといてな」と何度も念を押してきた。
マンションを出てすぐ、後ろで「あ!」と声がして猪瀬が追ってきた。わたしが振り向くと、彼は真剣な顔で言った。
「あの子、どこで殺る気なん? うちでやるなら部屋気をつけてや。原状回復、たのんまっせ!」