カラン。アイスティーの氷が溶けて涼しげな音をたてる。恵比寿のカフェで、マミコは人を待っていた。
10分もしないうちに、大柄な女性が息を切らせてやってきた。彼女はしきりに遅刻を詫びて、色褪せて固そうなタオルハンカチで汗を拭った。マミコはコスメデコルテのAQ MW ルージュ グロウ(※1)を塗った唇の端を釣り上げてメニューを手渡す。全然待ってないよ、お姉ちゃん。
ムラカミフミカ。旧姓・ノガミ。マミコの実姉で、現在2人の子持ちの主婦だ。子育てとパートに追われる日々の中、たまにマミコの顔を見に来る。
ボーダーのスカートに厚手のタイツ、紺色のパーカー。全体的に野暮ったい。目の下に滲んだアイラインを見て、マミコの頭をRMKのメイク直し綿棒(※2)が過ぎったが、ポーチを差し出すことはなかった。
どれが美味しいかわからないや。マミちゃんと同じやつにする。姉の言葉に微笑んで、マミコは店員を呼び止めた。こういう場で素直にわからないと言えてしまうのが彼女の長所のひとつであり、そういうところがマミコは大嫌いだった。
7歳年上のフミカは、少年漫画の主人公のような人だ。
困っている人がいれば手を差し伸べ、いじめがあれば見過ごさない。他人のために火の粉を被り、決して見返りを求めない。魂が高潔だと評したのは、高校時代の担任だったか。
当然フミカの人望は篤い。マミコは彼女のウェディングドレス姿を思い出した。学生結婚で式を諦めたフミカとその夫のために、友人たちがサプライズでウェディングパーティを開いたのだ。ウェルカムボードからドレスまで、あらゆるものが手作りの、愛に溢れたパーティだった。
マミコの方が容姿も良ければ要領も良い。昔から、どんなに妹だけが褒められていても決して機嫌を損ねないどころか、自慢の妹だと胸を張るフミカのことを、マミコは内心不気味に感じていた。けれど、あの場で思い知らされた。フミカの価値は容姿でも成績でも肩書きでもない。フミカはフミカであるだけで愛される。周りにも、フミカ自身にも。
ねぇ、と声をかけられてマミコは顔を上げた。マミちゃん、また綺麗になったね。彼でも出来た?
ーー男ならいるよ、4人。1人は既婚者。なんて言ったらどんな反応をするのか気になるが、マミコは静かに首を横に振った。
その後もフミカはマミコの東京暮らしや仕事ーーと言っても全自動お茶汲みマシーンだが、『東京のOL』というだけで輝いて見えるものらしいーーに対して羨ましい、と繰り返した。わたしなんて、中途半端な田舎のパート主婦だよ。最近白髪も増えてきちゃったと笑って。
羨ましいという言葉に嫌味やお世辞のニュアンスはないが、本心でもない。彼女は文句を言いながらも、自分自身やその日常を肯定している。愛している。仮に本当に立場を取り替えられるとしても、今の生活を選ぶだろう。
羨ましいのはこっちだよと言うと、フミカはそんなわけないじゃんと苦笑した。マミコは言葉を続ける。だって、
お姉ちゃんの周りの人はメリットもデメリットもなくただ姉ちゃんのことが好きでフミカじゃなきゃフミカのためならって慕ってくれてるじゃんお姉ちゃんは40歳でも80歳でも価値は変わらないよむしろ増していくんじゃないかなでもわたしはそれなりに若くて可愛いからって繋ぎとめられてるものが多すぎるんだよ若さや可愛さが今この瞬間も刻々と削られていく怖さをお姉ちゃんは知らないよねわたしなんにも出来ないんだよどう考えても男に頼らないと生きてけないのに男のこと好きになれなくて全員バカに見えてしまうよリョウくんもサトルもシンちゃんもテツくんもいやテツくんははとっくに切れてるけどとにかくみんなわたしじゃなくてもいいんだもんあぁ失ってくものばっかだよなんで羨ましいなんて言えるんだよ全部持ってるのはお姉ちゃんでしょわたしだって自信があったら容姿や若さなんか固執しないよ大嫌い何その口紅の色全然まったく似合ってないあんたブルベじゃんそれ滅茶苦茶イエベカラーだからでもそんなことであんたの価値は揺らがないんだよね知ってるほんとにほんとにむなしい。
ーーなどと思っているのをおくびにも出さず、可愛い子供と素敵な旦那さんがいるじゃん♡と口にしたマミコは笑顔の裏で、なぜ姉妹でこうも差がついたのかを考えていた。ねぇケーキ食べない?とメニューを指差す指の爪には赤い色が乗っていて、色付けているのはマミコが誕生日に贈ったシャネルのマニキュアだった(※3)。忙しいのに、普段は絶対塗らないのに、マミコに会うのを楽しみにして子供を寝かしつけてから慣れない手つきでマニキュアを塗る姉の姿を想像するとなぜか目の奥が熱を持ったが気づかなかったことにしてマミコは頷いた。そうね、わたしメロンのタルトにする。
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(※1)
コスメデコルテのAQ MW ルージュ グロウはやわらかくスルリと塗れて、乾燥しない優秀な口紅である。色はRO653だが追加でレッド系を買い足す予定。下地を塗り忘れてもほぼ問題なく皮向けもしない。
(※2)
RMKのコットンスティックはドライ面とウェット面の使い分けでメイク直しに重宝する。アイメイク崩れが心配な時などは必ず持ち歩いている。一本ずつ切り離して持ち歩けるのもポイントが高い。
RMK コットンスティック〈クレンジング〉|ツール|オンラインショップ|RMK
(※3)
シャネルのヴェルニはビジュアルが可愛く、細めの筆が塗りやすいし、発色も良い。『シャネルのマニキュアを塗っている』事実にテンションが上がるが、少し高いので主にプレゼント用に購入する。