(この話の続きです)
「株式会社白井システム所属、明城大学出身の広田ナコさん。インスタもTwitterも本垢抑えてます。逃げるなら全部晒すから」
『り』と名乗った女の子、YouTuberのシマレナのアンチだったはずのその人は、どう見てもシマレナ本人だった。完璧な形の眉とまつげ。唇はマットなオレンジブラウンで、ツヤ肌とのコントラストが絶妙だった。もうとっくに冬だというのに、シマレナはアイスコーヒーを頼んだ。猫舌の麗奈ちゃんは温かい飲み物を飲めない。そのことを、わたしはずっと前から知っていた。
注文の品が運ばれてくるまで、わたしたちは言葉を交わさなかった。シマレナはテーブルの上に肘をつき、わたしをじっと見つめていた。薄く笑ったその顔には、小学生の頃のシマレナ――島田麗奈ちゃんの面影がある。
わたしが元同級生だと気づいただろうか。いや、所属や本名がバレてるんなら、そんなのとっくに……。わたしは麗奈ちゃんの目を見られなかった。
「何か言いたいことはある?」
アイスコーヒーが運ばれてきて、麗奈ちゃんはやっと口を開いた。彼女がグラスに垂らしたミルクが、あっという間にコーヒーを淡い茶色に変える。ストローを摘んでかき混ぜる指先のネイルは、ミルクコーヒーと同じ色。丸みを帯びた長めの爪は、隙なくコーティングされている。
「あの、な……なんで……」
言ってから、間違ったと気づく。最初に謝るべきだった。でも麗奈ちゃんは予想通りとでも言うように、口元の笑みを深くした。
「ずっとやりとりしてたのは私だよ。『り』は私の裏垢です」
「……でも、『り』はアンチだし……」
「まさか自分の悪口を書いてるとは思わなかった? でも同類だと思ったからこそ、こうやって会いに来てくれたんでしょ、広田さん」
本名を呼ばれ、わたしは思わず周囲を見渡した。昼過ぎの賑わったカフェでは、誰も他人のことは気にしていない。わたしの思いを知ってか知らずか、麗奈ちゃんは貼り付けたような笑顔で続けた。
「粗探しとデマの拡散、面白かった?」
「あの……えっと」
「今からアカウント消しても無駄だから。全部ログ取って保存してるよ」
わたしの言葉を遮って、麗奈ちゃんはカバンからクリアファイルを取り出して言った。
「裏垢だけじゃなく本垢もね。わけわかんないよ。本垢ではファンみたいに振る舞ってるんだね。それで裏垢じゃあコレだもん」
麗奈ちゃんがファイルの中身をテーブルの上に広げた。わたしの裏垢のホーム画面とツイートが紙に印刷されていた。一部には蛍光ペンで線が引かれていて、聞かなくても問題のある部分だとわかる。
「動画が面白くないとか、服がダサいとかは全然いいよ。でもピンクで線を引いたところは容姿の中傷ととれるし、黄色は人格攻撃。緑はデマ。顔写真付きでつぶやける内容じゃないのはわかる? わかるからリアルな自分と繋がらない、裏垢をわざわざ作ったんだよね」
頭が真っ白になり、心臓がバクバク言っている。麗奈ちゃんの言う通りだった。現実世界の知り合いに見られたら引かれる。それがわかっているからこそ、わたしはアカウントを分けた。
「1番許せないのはデマ。いじめって何?覚えがないけど」
カフェオレ色に塗られた爪が、緑の線をトントンと指す。
「あの……ごめんなさい」
「デマって認める?」
「認める、ていうか……その」
「認めないなら、私がいつ、どこで、誰に対してどんないじめをしたか言って。被害者の名前も」
その投げやりな言い方に、麗奈ちゃんがわたしを赤の他人――同級生を騙る嘘つきと最初から決めてかかっているのがわかってしまった。……本当にわたしがわからないんだ。本名を知り、こうして顔を突き合わせてもなお。
「……本郷小学校」
具体的な学校名を上げて初めて、麗奈ちゃんの顔から余裕の笑みが消える。どうして知ってるの? と言わんばかりの不審な表情。
「葛飾の? 確かにそこに通ってたけど……」
「わたしたち、同じクラスだった。4年2組と5年1組。担任は市川先生」
「え、本当に……?」
麗奈ちゃんはまじまじとわたしの顔を見るけれど、ピンと来てないのは明らかだった。首を傾げ、ため息をつき、アイスコーヒーをひと口すする。
「ごめん。まったく覚えてない」
体がカッと熱くなる。残念に思う気持ちと同時に、そんなんだから叩かれるんじゃないですか、と理不尽な主張が頭に浮かんだ。ついさっきまで同級生だとバレていないか気を揉んでいたのに、相手の記憶から消えてると思うと、どうしようもない怒りと悔しさが沸いて出る。どこまでもあなたは脇役なのだ。……そんな風に言われているようで。
「シオちゃんの悪口、言ってたよね?」
自分からそう切り出したのは、麗奈ちゃんを動揺させたいからだった。それなのに、
「シオ? 小早川汐海のこと?」
わたしを思い出せない麗奈ちゃんは、迷いなくシオちゃんのフルネームを口にした。そのことが私の胸を刺す。
「……シオとは今も付き合いあるよ。『小学校時代の知り合いを名乗るアンチがいる』って、最初に相談したくらい。そのシオを私がいじめてた? 冗談でしょ。先月もふたりで旅行に行きましたけど」
シマレナのインスタに上がっていた、箱根旅行の写真が頭をよぎる。顔をスタンプで隠した『女友達』はシオちゃんだったのか。ちなみに小学校卒業以来、わたしはシオちゃんとも疎遠になっていた。
「確かに、シオとは最初は険悪だった気はするけど……あの子は学級委員だったし、6年の時は児童会長になったって聞いたよ。不登校になるタイプじゃないでしょ」
その通りだった。わたしを思い出せない時点で、麗奈ちゃんの小学生の頃の記憶はかなり薄れていると踏んでいた。けれど、話を聞く限り、麗奈ちゃんの記憶は鮮明だった。その中にわたしがいないだけ。テーブルの下で拳を握る。今のわたしに、悔しいなんて感情を抱く権利はないとわかっているのに、そう思うのを止められなくて下唇を噛み締めた。
「シオに電話する? 島田麗奈にいじめられてたか聞いてみてよ」
差し出されたスマホには、わたしの知らないシオちゃんのアイコンが表示されていた。その下の電話のマークを押せばシオちゃんにつながる。押せるわけもなく、わたしは首を横に振る。ごめんなさい、と謝る声は、自分でも聞き取れないほどか細かった。麗奈ちゃんは白けたようにスマホを自分の手の中に戻し、画面から目を離さずに言った。
「まぁいいや。とりあえず住所教えて」
「……住所?」
「訴訟に必要だから」
「訴訟、って、え?」
「どう見ても悪質でしょ、コレ。いじめの話もデマだったし」
訴訟と聞いて血の気が引いた。こんなことで? 誰だってやってることじゃないの? 多少、言葉は過激だったかもしれないけれど、アカウントを消すとか謝罪じゃなくて、いきなり訴訟になっちゃうの?
「待って、困ります」
「困ってるのはこっちだから。一度噂になったら消えないの。あなたがしたのはそういうこと」
「謝ります。嘘でしたってツイートするし、アカウントも消します! だから」
「『嘘でした』で噂が完全に消えるならいいよ。でもそうはならないの、普通に考えたらわかるよね? みんな信じたいものを信じるんだから、選択肢を提示した時点で終わりなんだって」
「ごめんなさい。勘違いしてて……その……」
「どんな勘違い? 勘違いで済む量じゃないでしょ」
麗奈ちゃんは呆れた顔で、再び机の上の紙を指さす。すべて破り捨て、なかったことにしてしまいたい衝動に駆られた。でも破っても事実は消えない。……それはツイートを消してもなかったことにならないのと似てる、と脳にわずかに残った冷静な部分で考え至る。
わたしはバッグからポーチを取り出し、中身をテーブルにぶちまけた。Excelのアイブロウ、visseのアイシャドウ、アルビオンのパウダーファンデ、RMKのリップ。怪訝な顔をする麗奈ちゃんに向かって、わたしは一方的に捲したてた。
「ほら、見て。全部シマレナの……麗奈ちゃんが紹介してたやつ。麗奈ちゃんがオススメしてるもの、いつも買ってるよ。眉も麗奈ちゃんが上げてた動画のやり方で描いてる。やっぱ眉頭は粉だよね。どうもグラデーションつけるの苦手でね、あの動画を見て練習したよ。あと眉の動画だと、ほら、色んな眉の形を試してたやつあったじゃない? 眉で印象変わるって言うけど、あの動画で実感したよ。でも結局、太めの直線っぽい、この形に落ち着いちゃうんだけどね。このアイブロウすごい描きやすい。麗奈ちゃんも言ってたけど、いい感じにぼかせて便利だよねぇ。ドラッグストアで買えちゃうし……麗奈ちゃんは、デパコスだけじゃなく色んなブランド網羅して取り上げてるよね。あ、あとこれ! こっちも本当に良かった。パウダーファンデって避けてたけど、これは本当に当たりだったよ。粉っぽくならないし、持ち運び楽でお直しにも便利だし、麗奈ちゃんも」
「麗奈って呼ばないでくれる?」
強い拒絶のトーンだった。麗奈ちゃんの視線はわたしに向いていたけど、見ていると言うより睨んでいるに近かった。
「わたしが動画で使ったコスメを持ってるからって何? 『本当はファンなんだよ』とでも言うつもり? 無理があるでしょ……」
「違うの、麗奈ちゃん。わたしは……」
「何が違うの?」
そう聞かれてしまうと言葉に詰まる。けれどわたしは、単純に麗奈ちゃんを嫌っていたわけではない……と思う。たしかにシマレナの活動に思うところはあったし、中傷ととらえられても仕方のない発言もした。でも、動画をいつも楽しみにしてたのは事実で、シマレナと同じものを買い、テクニックは素直に真似た。わたしはアンチだったけど、その一方でファンでもあったのだ、たぶん。いじめの噂を流したのも、他の人より麗奈ちゃん自身を知っていることを、誰かに認めてほしかったからな気もする。単純にシマレナが嫌いなだけの他のアンチと、一緒にされたくはなかった。
うまく言葉に出来ずに黙っていると、麗奈ちゃんは大きなため息をついた。
「とりあえず住所。ここに書いて」
「麗奈ちゃん、あの」
「アカウント消したりしないでね。後から弁護士を通して交渉するけど、そのアカウントでツイートの削除や謝罪をしてほしいから」
「……麗奈ちゃん、わたし、麗奈ちゃんのことね」
「訴訟になると記録に残るから、和解が良ければ弁護士に伝えて。どちらにせよ、慰謝料はちゃんと払ってもらうね」
「れいなちゃ……」
「麗奈って呼ばないでってば!」
麗奈ちゃんがテーブルを叩いたので、両隣の客の視線が集まった。隣のカップルの女の子が、野次馬根性丸出しの楽しげな視線を彼氏に送る。……どうか目の前にいる人が、シマレナだと気づきませんように。
イライラした様子で頭を掻いた麗奈ちゃん……シマレナ、は、残り少ないアイスコーヒーを一気に飲み干した。
「私とあなたは友達じゃない。ただ同じ教室にいた他人でしょ。さんざん叩いておいてキモいんだよ。申し訳ないと思うなら住所書いて。書かないなら調べてもらうから良い。本名も職場もわかってるしね」
震える手で住所を書くと、水滴が落ちて文字を滲ませた。わたしが泣いていることに、わたしより先に麗奈ちゃんが気づいた。
「泣かれても困るんだけどな」
麗奈ちゃんは心底迷惑そうにそう言うけれど、泣いたら有耶無耶になるなんて流石に思っていないし、ダサいのはよくわかってる。わたしだって泣きたくないし、どうして泣いてるのかもわからなかった。隣のテーブルの女の子からの視線を感じる。それでもわたしはハンカチで顔を抑えつつ、なるべく目立たないよう俯いているのが精一杯だった。
別れ際、麗奈ちゃんは「ちなみに全部録音したから」と言って、伝票を掴んで帰っていった。ひとりになったわたしは、本垢に鍵を掛け、シマレナのSNSのホーム画面を何度も何度もチェックした。晒すとは言っていなかったけど、わたしの情報は麗奈ちゃんの手の中にあって、どうにでもできるのだと思うと、足元がぐらつくような不安に駆られた。
それでも、帰りの電車でいつものように「シマレナ」と検索するのをやめられなかったし、シマレナが叩かれてるのを見ると安心した。麗奈ちゃんはこの人たちも、ちゃんと訴えるつもりだろうか。わたしがこうなった以上、全員潰してくれないと不公平じゃないか。……こんな風に考える最低な性格だから、麗奈ちゃんに嫌われてしまったのだろうか。裏垢を作ったのは、友達に見られたくなかったのももちろんあるけど、きっと麗奈ちゃんに私自身を、本垢を、広田ナコを嫌ってほしくなかったのだろう。と、今更気づいて死にたくなった。
日付が変わる頃には、すべてのアカウントはシマレナにブロックされていた。半狂乱で新しいアカウントをつくって覗く。それでもわたしのことはもちろん、インターネット上の『シマレナ』からは、不愉快な出来事の匂いすら一切しなかった。シマレナの世界からはじかれている。それが無性に悲しくて、目覚ましが鳴るまで泣き続けた。
おしまい
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