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わたしのブログ

人生は薄味の絶望

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この記事は誰の役にも立たないし、誰かを責める意図もない。長い間持ち続けていた気持ちを文章にしただけだから、もちろん解決に向けた提案もない。

 

私は都内で働く会社員である。仕事は大変だが楽しく、ひとり暮らしを無理なく維持する収入がある。また多くはないが友人がおり、彼氏とは安定した付き合いが続いている。そして何より、健康だ。幸せだし恵まれているとも思う。にも関わらず、「死にたい」でもなく「辛い」でもない、ふとした瞬間に何もかもどうでもよくなる感覚を、10年ほど持て余している。

 

Twitterでは度々呟いているが、私は嫌いな人がとても少ない。苦手な人、関わりたくない人はいるが、嫌いというほどではない。学生時代に散々セクハラをかましてきたおじさんや、美人の同期にブスと言い放った元同僚(※1)のことも、嫌いかと言われるとそうでもない気がしてしまう。他人に対する期待が少ないからだ。

『誰かを嫌いになるには期待の裏切りが必要である』というのが私の持論だ。『常識的で、周囲を尊重できる人間』からウンコを投げつけられれば傷つくが、ゴリラであれば仕方がない。ゴリラにはモラルを期待をしていない。こうして『人間に』傷つけられ、『人間を』憎むことを無意識に避けているのだ。この考え方の根元にあるのは、中学時代に受けたセクハラだと思う(※2)。

 

期待を持たない人生は穏やかだ。

上司に公平さを、親に無償の愛情を。期待しなければ傷つくこともなく、ごく普通の振る舞いもプラスに映る。だから私はふんわりと、周りの人たちが好きなのだと思う。

 

期待しないのは他人にだけではない。自分も同じだ。 

20代後半にもなると、SNSのタイムラインには結婚や出産、子供の成長の知らせが並ぶ。友人・知人の面影を感じる子供の写真は微笑ましく、素直に幸せそうだと感じる。でも、自分が子を産み慈しむイメージは一向に湧かない。

 

私が私に求めるのは、自分の生活を維持することだけだ。誰かのために余裕を失い、献身的に世話する未来を想像できない。今の私が他人に優しく出来るのは、期待しないことで感情の揺れが少なく、その分余裕があるからだ。

産んでしまえば変わると言う人もいる。私には出産経験がないから、その意見を全否定することは出来ない。けれど、変わることが出来なかったら?

私は世間体を完全無視するほどアウトローにはなれないから、最低限の義務は果たすだろう。だからもしかしたら、タスクとしての子育てはこなすことが出来る、かもしれない。しかしそういった作業は外注したっていい部分だ。無償で無限の、いや、そこまで行かなくても、子供にとって十分な愛情を捻出する期待を、自分自身に持てないでいる。

 

「口の中から薄味の絶望が消えない」。そんな風に例えれば伝わるだろうか。

どんなに美味しいものを食べても、しばらくすれば元通りだ。普段は気にならない程度の苦味だけれど、これからも消えない気がしている。だがそのおかげで、人より甘さを強く感じられ、逆に苦いものでもへらりと飲み込めるのかもしれない。期待はリスクだが希望であり、誰かに期待することが愛なのではと最近は思う。だとしたら、私には希望も愛もとても少ない。

 

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(※1)ブス呼ばわりされていた美人の同期の話は以下の記事で書いたが、なぜあのブス発言をした無礼マンを嫌いではないのか、自分でも謎だった。でも多分、「ゴリラにしてはきちんと会話ができることもあったし、売上もあげていたから」だと思う。人間とは基準が違うのだ。わたしがここで言う「嫌い」は人間相手にしか抱かない感情なのだろう。そうして相手を見下しながらいい人ぶるのだから、わたしも大概である。

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(※2)わたしが中学時代に受けたセクハラは、壮絶なものとは言えないかもしれない。でも、諦めや思考の捻じ曲げによって自分を守ることを覚えたきっかけは確実にこれだ。

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ありがたいことに、今まで優しい男性、尊敬できる男性にたくさん出会うことができた。でもこの考え方はこれからもずっと付きまとうだろう。