
(前回の話はこちら )
3か月と期間を決めて、わたしは口裂け女の身辺調査をすることにした。父親には「他にやることができたので調査は降りる」と連絡を入れた。もともとニートのわたしを見かねて無理に作った案件なので、父に異論があるはずもない。むしろ、わたしに他の仕事があるなら嬉しい、という様子ですらあった。
自分で調査を進めつつ、猪瀬にも口裂け女に動きがあったら連絡するように頼んであった。最初はなけなしの貯金からいくらか渡すつもりだったが、猪瀬は受け取らなかった。代わりに「これは貸しでっせ」と恩着せがましくウインクした。
猪瀬の言う通り、口裂け女の生活はきちんとしたものだった。フリーのエンジニアといっても、基本は土日休みらしい。ただし比較的時間は自由になるようで、平日昼間に出かけることもある。週に3度はスーパーに通い、鳥の胸肉・パプリカ・豆腐に納豆などをよく買っている。基本的には25時まで営業しているサミットストア東中野店を使うが、頻繁に駅の反対側……つまりわたしの事務所にほど近い商店街にも足を運んで八百屋や花屋や肉屋で普通に買い物をしていることもわかった。予想以上に生活圏が重なっている。
今まで遭遇しなかったのは、わたしがほとんど引きこもりの上昼夜逆転していたからかもしれない。ちなみに肉屋はわたしがたまにコロッケを買いに行く店だ。エコバッグに肉と野菜を入れ、季節の花を抱えて帰路につく口裂け女は、わたしの100倍ていねいな暮らしをしているように見える。
驚くことに、口裂け女は口元を人間のように擬態できるようだった。カフェでコーヒーを飲む彼女の口元は、猪瀬から得たマイナンバーカードの写真と同じく上品に整っていた。ただし、ごく短い間だけらしい。観察した中では最長1分半。ちょうど人間が息を止めていられる時間くらいだ。
土日はだいたい新宿にいる。デパートを回り、たまに映画や演劇を見て、紀伊國屋書店で本を買う。そして、一ヶ月に一人か二人を消した。面識があるわけではなく、たまたま出会った人間を消しているらしい。確認できた範囲では、ぶつかりおじさんが一人、しつこいナンパが一人消された。わたしは彼女を追っている途中、靴にカメラを仕込んで、他の女の子のスカートの中を盗撮している男を見つけたが、その男も口裂け女に消されていた。助けようと思えば助けられたが、わたしは全員見殺しにした。
……口裂け女には、異世界に引きずり込む能力があるらしい。最初にわたしが目撃したように、人目のない路地まで誘いこむこともあれば、大胆にも駅の構内で行うこともあった。対象を連れてぱっと消え、当たり前のように一人で戻る。誰も気にする様子はない。怪異の類にはよくあることだ。人間に比べて存在が曖昧なのだ。
口裂け女を追うのと同時に、わたしは新大久保の路地裏で消えた被害者についても調べた。免許証の名前を検索すると5年前のニュースがヒットした。『元ホストクラブ従業員を傷害容疑で逮捕 女性客に対し暴行を加え、顔面に怪我を負わせた疑い』。今はスカウトとして活動しているらしい。SNSまで特定できたが、当然あの日以降の更新はない。自宅のマンションまで行ってみても、郵便受けにはチラシと郵便物が溜まっていて、やはり帰ってきてはいないようだ。免許証の写真は削除した。
3か月の調査を終えた頃、季節はすっかり夏になっていた。不思議なことに、この怪物を追う3か月間、わたしは妙に気力に満ちていた。まっとうな生活をする者を追うには、自分もリズムを合わせる必要がある。わたしは久しぶりに夜寝て朝起きる生活をしていた。1年ぶりにまともに料理をしたことを報告すると、葉月はすごく喜んでくれた。埋め合わせの約束は実現できていない。葉月は大手のゲーム会社に勤めているが、ついに念願のプロジェクトに参加できることになったらしく、土日もあれこれ忙しいようだ。けれどLINEの文章からは楽しげな様子が伝わってきて、わたしも嬉しい気持ちになった。
*
その日はよく晴れた土曜日だった。午後1時、グリーンハイツ東新宿から出てきた女に声をかける。
「久遠さんですね」
女は日傘を差そうとした手をとめ、怪訝そうにわたしを見た。返事はない。マンションの入口で、猪瀬がこちらの様子をうかがっているのがわかった。
「お話があります。いいですね」
女は答えない。後ろでは猪瀬が「うちではやるな」とばかりに、全身で「どっか行け」のジェスチャーをしており目障りだった。
「ついてきてください」
「……嫌だと言ったら」
初めて口裂け女の声を聞く。女性としてはやや低めだが、ハスキーで耳障りのよい声だった。
「無理にでも連れていきます」
「……そう」
口裂け女は大人しくついてきた。しばらく葉月が来ていないので事務所は散らかっているが、この女に気を使う必要はない。雑居ビル二階、ガラス戸に貼られた「阪本相談所」の紙を見て、女がどう思ったかは知らない。ただ、涼しい顔をしてついてきた女の顔に、玉の汗が浮かんでいるのに気がついた。日傘は開かず持ったままだった。折りたたみ式の傘を折れんばかりに握った手に、青い血管が浮いている。
わたしは応接スペースのソファに腰かけ、口裂け女にも着席を進めたが、彼女は立ったまま動かなかった。冷房の効きの悪い事務所は暑く、わたしもTシャツが背中に張り付いていた。
「今まで何人殺しましたか?」
口裂け女は黙ったままだ。黒いノースリーブのワンピース、ヒールのない華奢なサンダル、ブランドのロゴの入ったかごバッグ、顔の下半分を隠すマスク。背筋はピンと伸びている。
「覚えてない」
数秒の沈黙の後、口裂け女は言った。嘘ではなかった。
「この3か月、あなたを監視していました。7人消しましたね。主に新宿近辺で」
「……数えてない」
「わたしは数えてる。対象を選ぶ基準はありますか? 誰とも面識はなかったですよね」
またしばらくの間があった。逃げたり誤魔化すような様子はなく、正確な回答を考えているようだった。
「ウザくて、臭いやつ」
「臭い?」
「たまに嫌な匂いがするやつがいる。そういうやつを消す」
「……あなたが嫌いな匂いがある、ということ?」
「たぶん人間には嗅ぎ取れない匂い。吐瀉物のような、下水のような、そういう匂いがする人間がいる」
「そういう人間を消している? なぜ?」
「なぜ?」
口裂け女が繰り返す。そんなことは考えたことがない、といった様子だった。
「理由はない。強いて言えば、出先で見かけた虫を気まぐれに駆除するのと同じ。見ないふりすることもある。大した意味はない」
「……少なくとも、わたしが見てきた被害者の中には、盗撮魔、傷害の前科を持った悪質スカウト、女性を狙ってぶつかりに行く人が含まれていました。そのことを知って狙ったのでは?」
「知らない。関係ない。ウザくて臭いから殺した」
「……そう」
わたしは組んでいた腕をほどいて、飲み物を取りに行こうと腰を浮かせた。その何気ない仕草に、口裂け女はビクリと体を震わせ後退りした。わたしは「あなたも何か飲む?」と聞いたが、彼女は警戒心むき出しの視線をわたしに向けただけだった。
「あなたは人を食う?」
「食わない」
「人を襲わないと死ぬ?」
「死なない」
「じゃあなぜ殺すの?」
「意味はない」
「強いて言うならウザくて臭いから?」
「……そう」
「今後、許可なく人を殺さないと約束できる?」
口裂け女の顔に怪訝な色が浮かぶ。胡散臭いものを見るように目を細めている。
「許可。誰の」
「わたしの許可」
「……どういう意味」
「わたしは……」
わたしは一度言葉を止めて深呼吸をした。目を閉じる。膝に置いた手を握り合わせて力を込める。数秒後、ずっと頭に閉じ込めていた言葉を解放するようにして、わたしは口裂け女の顔を見た。
「わたしは、ずっと前から、世の中には死んだほうがいい、絶対に生きてちゃいけない人間っていうのがいると思ってて、反省とか、良心とか、そういう機能がついてない人間っていうのが、存在すると思ってるのね。例えば、子供相手の性犯罪とか、いや、被害者は子供とか大人とか女性とか男性とか関係ないけど、とにかく、性犯罪者は本当に許せないし、繰り返してるやつとか全然いるし、捕まっても大した罪にはならなくて、女が誘ってるだのなんだでセカンドレイプするやつも、本当に死ねばいいと思うのね。でもわたし、本当に弱くて、いや、あなたみたいな怪異や幽霊相手にはめちゃくちゃ強いんだけど、肉体的には、人間の女の中でも特に弱い方なのね。デカい男に絡まれてる女の子を助けてあげたくても、できないんだよ。殴られたら死ぬんだもん。一度骨折って入院し、いや、それはもう別にいいんだけど、良くないけど、とにかく、わたしは、あなたを一瞬で祓えたとしても、街を行く男性には全然かなわない。悪いやつからも逃げることしかできない。でも、あなたは悪い人間、殺せるよね? 生きてちゃいけない奴を殺してほしい。その代わり、わたしはあなたを討伐しない。あなたは生活を失わない。だから、今後はわたしの選んだやつだけ殺してほしい」
事務所は水を打ったように静かになった。口裂け女の顔に強い感情は浮かんでいないが、変わらずわたしの本心をうかがうように目を細めている。
「殺せって? 人間のあんたが、人間を?」
「そう。わたしはとびきり悪いやつを見つける。あなたは悪いやつを殺す」
「……わたしは、街で見かけた目障りなやつらを消してきた。でもあんたは、世界中からわざわざ『悪いやつ』を探してわたしに殺させるつもり?」
「そうだよ。できるでしょ」
口裂け女は無表情のまま、つぶやくように吐き捨てた。
「あんたがやろうとしていることは、わざわざゴミ捨て場に出かけて、不快な虫を探しにいくようなものでは?」
「そうかもしれない」
「キモすぎる」
心底理解できない、という調子だった。だけどわたしには、彼女の理解を得る必要はない。
「同志になってほしいわけじゃない。あなたはわたしの道具になるか、今日死ぬかしか選択肢はない」
口裂け女の顔に、はっきりと不愉快が浮かんだ。形のいい眉を歪めて、わたしを明らかに嫌悪している。
彼女の今日の行動からして、力の差を理解しているはずだ。思い通りにならないならば、わたしは本当にこの場で彼女を祓うつもりだった。
「どうする? 死ぬ?」
「……わかった」
口裂け女はため息をつき、初めてわたしから視線を外した。白くて長い腕を組み、呆れたように斜め下を見る。
「やる。もう勝手には殺さない」
「よかった」
わたしは笑顔を作ったが、アンバランスさは自覚していた。
「これは契約です。明日から、あなたは毎日この事務所に来ること。わたしはあなたに、今日……8月5日以降に人を殺したか尋ねる。あなたは答える。当面はそれだけでいい」
口裂け女は頷きもしないが、わたしは構わず続けた。
「時間は何時でもいい。でも、1日以上の間があった場合、わたしはあなたを殺す。絶対に。どこに逃げても必ず殺す。脅しじゃないのはわかるよね?」
「……わたしが嘘をついていたら?」
「嘘は通用しない」
わたしは断言した。
「わたしには、嘘を見破る能力がある」
口裂け女はまた疑わしそうにわたしを見たが、特に反論しなかった。
*
もう事務所に留める理由はないので、わたしは彼女を帰すことにした。まだ日は明るい。予定は知らないが、買い物ならまだ間に合うだろう。
「……阪本?」
「なにが」
「あんたの名前」
口裂け女はガラスドアを指さして言う。
「阪本相談所って書いてある」
「あぁ……」
その時初めて、わたしは彼女に名乗っていないことに気づいた。こちらは身分証のコピーまで持っているのに、ずいぶん不公平な話だ。
「阪本は父の旧姓。わたしの名前は久世塔子」
「久世」
口裂け女の顔色が変わる。
「最悪」
「みんなそう言う」
口裂け女の背中を押し出すようにして送り出し、わたしは伸びをした。久しぶりに緊張した。……でも、欲しいものは手に入れた。わたしは心から満足していた。
先ほど背中に触れた時、彼女のワンピースについていた髪をつまみ取った。黒くて長くてコシのある髪。失くさないうちにジップロックにいれて保存しておく。口裂け女の住所も身分も最寄りのスーパーも把握しているが、これは保険だ。『どこに逃げても』は脅しではない。絶対に探し当てる。わたしの母親は占い師で、特に人探しが大得意なのだ。
Chapter2につづく