今月のはじめ、芸人の山崎ケイさんの著書「ちょうどいいブスのススメ」のドラマ化が話題になっていた。
ネットで拾える情報を拾って、まず思ったのはこういうことだった。
本を読んでいないし、ドラマの詳細もわからないけど、「自分がブスだと受け入れなさい!」なんてメッセージを押し付けられるなら本当に、本当にしんどい あとドラマが流行って「ちょうどいいブス」が一部の人の間で褒め言葉みたいに使われて、言われた方が傷つくみたいな構図にならないといいなと思う
— 白井瑶(しらいよう) (@shiraiyo_) 2018年12月6日
山崎ケイさんは面白いな〜と思うし、モテるのすごいよくわかる。でもそれって、「ちょうどいいブス」だからではなくって「容姿以外の部分で自信を持てているから」「容姿に頼らない戦略を立てられているから」なのではないかな 「ちょうどいいブス」って言葉がキャッチーで引きがいいのはわかるけど
— 白井瑶(しらいよう) (@shiraiyo_) 2018年12月6日
山崎さんが「ちょうどいいブス」を自称できるのは強固な自信に裏打ちされているからで、自信のない子が真似してしまうと「ちょうどいい」どころか「(他人から見て)都合のいい」になってしまうような印象がある。
— 白井瑶(しらいよう) (@shiraiyo_) 2018年12月6日
……これ以上は本を読んでからにしようと思います 読んだらブログにまとめます
と、いうわけで本を買ってきた。
最後まで読んではみたものの、「想像以上に想像通りの内容だったな」というのが正直なところだ。そして想像以上に「ちょうどいいブス」のハードルは高く、一般の女子に「ススメ」られるような内容ではないと思った。逆に「ちょうどいいブス」を自称して今より幸せになれるのはどんな子だろうと考えてみたが、こういう感じではないだろうか。
- もともと自分に自信があって
- なんならそこそこモテてきて
- セックスが好きで
- メンタルが強く
- 頭の回転が早く
-
コミュニケーション能力が高い
山崎ケイさんは「ちょうどいいブスを自覚してからの方がモテるようになった」と色々なところで発言しているけれど、今ほどでなかったとしても、彼女は昔からモテてきた人なのだ。「自分のことを大好きな人としか付き合ったことがない」と言う通り、愛された経験のある人だ。
誠子「今まで何人もケイちゃんみたいにブスの自覚なくお笑いの世界に入ってその後ブスいじりされて芸人の世界から去っていったブスを私何人も見てきたから、ケイちゃんも絶対に続かないと思ってた」
山崎ケイ「ちょうどいいブスのススメ(主婦の友社)」より
自覚がなかった山崎さんがいじりに耐えられ、それを逆手にとる処世術を編み出せたのは、「ブスいじりをされる前に強固な自信が出来上がっていたから」に尽きると思う。生まれつきなのか、過去愛されてきた実績からか、もしかしたら学歴とか、頭の回転の速さによって培われてきたものかもしれない。
わたしは「人の外見はパッケージ、自信はその上のラッピング」みたいなものだと思っている。美人じゃなくてもスゴいモテ方をする人はわりといて、そういう人はラッピングがすごく上手だ。山崎さんはきれいで頑丈なラッピング=自信がもともとあったから、ブス扱いにも負けなかったし、「ちょうどいいブス」という新たなウリを手に入れて、ますますモテが加速しただけではないかと思う。
男性が「酔ったらいける」ちょうどいいブスを自覚した生き方は、そういうきっかけを作った後にどうにかするテクニックを持ち、何なら「酔っていった」あと、何もなくても傷つかない人でないと難しい。
でも、そういうかけひき含めて楽しめるなら、ちょうどいいブスとして生きていくのはもちろんアリだ。アリだけど、それは「ちょうどいいブス」を他人に押し付けないことが絶対条件じゃないだろうか。
ちょうどいいブス、ひとりで完結するべきでは?
前の相方は見た目的にはまぁまぁブスだったんですけど(中略)読者モデルかぶれもサブカル気取りも痛いですけど、その両方の要素を兼ね備えてなおかてまぁまぁのブス。これはあってはならないことなんですよ!
山崎ケイ「ちょうどいいブスのススメ(主婦の友社)」より
どうして「あってはならない」のだろう?本の中で語られるちょうどいいブス戦略よりも、ちょいちょい挟まれるこうした「無自覚なブス」「ちょうどよくないブス」への辛辣さが気になった。
わたしは中学の頃に同級生からセクハラを受けて以降、どうもそういう目に遭いやすい人生を歩んだ。そこで得た「にこにこ笑って適当に流せば、それなりに楽に生きられる」という教訓のみを信じていたので、セクハラに目くじらをたてる女性に対して「いちいち怒って大変そう」「もっと上手に生きればいいのに」などと内心見下していた。そうしなければ、自分の生き方が否定されてしまうからだ。本の中でのちょうどよくないブスへのあたりの強さは、数年前のわたしが持っていた感情と似ているように感じた。
ドラマの公式サイトにある、「もしかしたら私、ブスなんじゃないかな?と仮定してみませんか」という文章はかなり醜悪だと思った。「それが素敵な女性になるための第一歩なのでは?」と続くのも重ねて悪趣味だ。ドラマの中の女性たちの「生きづらさ」「素敵じゃなさ」が「ブスを認めていないから」って、さすがに雑だしバカバカしくないか。
「ちょうどいいブスは誰にとって都合がいいのか」は、ぱぴこさんのブログで言及されていて、全面的に同意である。
本の表紙には「モテない美人よりモテるブス」とある。個人的には、ちょうどいいブスは山崎さんだから成立するというか、金を稼ぎたい?FXやったらいいじゃん!みたいな個人の資質に依存する戦略に思える。
とはいえ「男性にモテること」を人生のテーマにするのは自由で、容姿に恵まれなかったことを自覚した戦略を立てるのだって悪くない。でも、皆がそういう路線で生きているわけでもない。
もしも自分より容姿が劣る女性がブスを自覚していない様子に苛ついたり、それを表現せずにはいられないようなら、「ちょうどいいブス」にはたぶん向いてない。
最後に、ドラマが話題になる前に、わたしがタイムラインでとったアンケートを貼っておく。
生まれ変わるならどちらがいいですか
— 白井瑶(しらいよう) (@shiraiyo_) 2018年4月8日
ちなみに本の後半は、ちょうどいいブスというより「容姿に関係なく使えるモテテク」みたいな内容だった。そっちは役立つ人には役立つかも。
同じくドラマについて書いた記事
中学時代のセクハラのこと
今回の記事に書いたのとちょっとだけ似ている話